番外34.佐竹氏以前の太田を考える-太田地名の考察

常陸佐竹研究会の年一度の会報「常陸の佐竹」最新号に寄稿した ものです。


常陸太田市史通史編の上巻の「大田部と屯倉」の項に、太田地名は、「常陸国風土記」久慈郡の条に、「郡の東七里、大田の里」、『和名抄』に久慈郡大田郷とみえる「大田」の地名は、全国各地に分布し、『新編常陸国誌』には「大田ヲ以テ名トスルモノハ、美田多キヲ以テナリ」とあり、黒崎貞孝の「常陸紀行」や吉田東伍の「大日本地名辞書」には「其土平遠或は広大なる地を云」とする。大田の地名は、大田部と関係がある。と書かれているが、それでは、それ以前に大田という地名はなかったのであろうか。


私は常々こういった、ヤマト王権の残したとされる、日本書紀や古事記、風土記などを金科玉条のごとく奉り、それらの分析から当時の列島を考察する手法に否定的な見解を持っている。それらの古文書は原本ではなく、すべてが写しである。しかも平安末期から鎌倉時代に写されたといわれるものがほとんどであるから、それが当時の出来事を忠実に書き残しているかといえば、現在の国会議事録のように、為政者による都合のよい内容になっていることを、常に考慮しておく必要があると考えている。為政者に都合の悪いものは、荒唐無稽なお伽噺にするか、記録がないといえば事足りてしまうからである。写されたと考えられているその時代に創作した可能性すら疑っているのだ。


たとえば『常陸国風土記』は光圀が『大日本史』を編纂するための資料を探しているときに、たまたま加賀前田家が所蔵していたものを、彰考館の学者が写したものである。 

豊後、肥前風土記も藤原宇合が編纂したとされているので、残存している 五つの風土記のうち三つが宇合が係わっている。さらに、播磨国風土記も加賀前田家が発見している。さらに推論すれば、『常陸国風土記』は光圀の創作とすることも十分にありえるのだ。

 

ちなみに水戸藩の財政逼迫の原因は、『大日本史』編纂のために学者を優遇したことにあるとも言われているようだ。まったく平成の学園疑惑と同じ様相を示している。年貢(税金)を、領民の生活向上ではなく、結果的に明治維新思想の中心になってしまったからに他ならない。

領民(国民)そこにあらず、である。

何が義公なものか。                          

「民」は、目をつぶされたもの、の象形文字であることを肝に銘じなければならない。

さて、「大田」はアイヌ語で砂(浜)を意味するオタが語源であるとする説がある。断崖に囲まれた小さな砂浜にある集落(コタン→コオタン)を示している。(ブログ:地図・鉄道・旅 コンターサークル的 Life style さんから引用) 


ここで薩都神社由緒より当時の太田地区の地形を推定してみよう。

 

由緒では大同元年(八〇六年)に平良将が小中島に、大永二年(一五二二年)佐竹義舜が現在の地に遷座させたとされている。

 

平良将が平将門の父を指すのであるなら、大同元年には生まれていないので、好意的に同姓同名の別人だとしておく。でなければ常識化されている平将門の没年九四〇年が間違いか、父が良将でないことも疑わなければならなくなる。


さらに風土記と由緒を比較。

風土記-片岡連が立速男をかびれの峯に遷座する。(七一三年以前)

由緒 -七八八年に社を建て、延暦十九年(八〇〇年)にかびれの峯に遷座。そして八〇六年に小中島に再度遷座。由緒が正しければ『常陸国風土記』の久慈郡の条は八〇〇年以降に編纂されたことになる。


さて、海水面がどこまで来ていたかをシュミレートする便利なソフトがある。 

Flood Maps(フラッドマップ)で海水面を現在より20m上昇させた図が次の図である。

 

海面+20m 里野宮町周辺

海面+20m詳細 小中島推定地

 

少なくとも、小中島という地名ができた当初は入り江に浮かぶ島だったことが偲ばれるが、果たして大同元年に島であったかどうかの確認はできない。しかし小中島という地名があったということは、島だった時代が間違いなく存在したということだ。そしてその時代には、このような地形をコナカジマと呼んでいたことがわかる。

さらに周辺の由緒ある神社の立地を見れば、海面が+20mでも存在できるし、ほとんどが入り江を入ってきたときの目印となる重要な場所に位置しているのであるから、入り江の最深部に薩都神社が鎮座していることは興味深い。つまりこういう位置の神社は、灯台であったという意味においてである。

 

このように、「オタ」が「断崖に囲まれた小さな砂浜にある集落」という前の引用は見事に合致する。

 

しかし、なにもアイヌ語の「オタ」だけが語源とするのは、日本人と呼ばれている混成民族が、旧大陸から渡来してきたことを考慮しているとはいえない。アイヌ語の大元は何になるのか、を考える必要がある。明治新政府ねつ造史観により、すわ半島経由だと考えるのは底が浅い。中国の種々の史書によれば半島は倭国の一部であったことは明白であるから(山形明郷著 『卑弥呼の正体』参照)、古朝鮮語と当時の日本語はほぼ同じ言語であると考えるのが妥当だろう。巷で古百済語は日本語に色濃く残されているという見解はまさにそのことを示している。

 

さて、わたしはオオタに似た発音の言葉を探した。母音変換による転訛を考慮すれば、アタやウタなども候補になる。さらに転訛すればアカ、ウカ、ワダなども考えてよいだろう。

 

大野晋によれば、日本語の起源はインドのタミル語である。そしてタミル語の大元はドラヴィダ語である。批判も多いがそれに代わる的を射た説は見当たらない。

 

神社考古学を標榜しているわれわれは、神社の祭神の多くが、通説派のいうところの欠史八代の生身の人間であると理解しており、彼らの祖先が地中海沿岸やインド出身であることを確信している。例えばスサノヲが祇園精舎の守り神である牛頭天王であったり、金毘羅さんがガンジス川のクンピーラが根源であったりすることなどだ。始皇帝は嬴政(えいせい)という名前だが、韓国の済州島は嬴島であり、日本は瀛州であった。したがって、当時の日本は渡来人を含む多民族国家であって、明治新政府がねつ造した、万世一系、大和単一民族などでは決してなく、現在の中国のように多言語が飛び交っていたようである。漢字の伝来は日本書紀では応神天皇一六年に百済の王仁が来て、太子は王仁を師として諸の典籍を習ったとあるが、その時代の半島は倭国であり百済という国はない(前掲書 『卑弥呼の正体』)から、こんな通説は信じるに値しない。だが漢字は象形文字であり、表意文字であるから、多くの人が共通認識を得るには最適であったと推測できる。山、川、鳥、馬などは完全に絵文字だ。ゆえに誤解が少なくて済む。

しかし、般若心経の最後の部分のように、梵語(サンスクリット)を漢語に訳したものを、表意文字として理解してしまうとまったく勘違いしてしまうこともある。簡単な例ではアメリカを米国、フランスを仏国などと表記するが、この場合の漢字は意味を持たず、発音のみが有効となる。

したがって、漢訳された経典の漢字に惑わされてはならない。

 

ちなみに般若心経の最後は、

掲諦掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提薩婆訶 

Gate, Gate, Paragate, Parasamgate, Bodhi svaha


花山勝友氏訳

往き往きて、彼岸に往き 完全に彼岸に到達した者こそ悟りそのものである。めでたし


河野訳:

門よ、門よ、肉体にある閉ざされた太陽へとつながる門よ。開かれんことを!


 

つまり梵語(サンスクリット)は現在の英語に似ているのである。フェニキア語のもとになったと考えられるのだ。これは文明の伝播経路を示してもいると推測しているところだ。

だから私が思いついた「オオタ」に似た言葉はウォータ、WATERである。神話に良く出てくる海神(ワダツミ)はWATER(ワタ)の神(ミ)であるのではないか。オタは砂浜だけでなく海あるいは水の多いところを意味していたのではないかと思われる。

 

そして海(水)は綿とほぼ同じ発音をするのである。神話では海神を綿津見と表記することがある。

あぶくを古語でうたかたと言う。

water片であろうか。

下に各言語の海と綿を示す。

 

言語 海(水) 木綿
サンスクリット badara badara
ロシア語 boda bata
ポーランド語 woda wata
英語 water wad
 

  

大田を美田の意味ととらえてしまうことは、田という文字を表意文字としてとらえるという通念があるからでもあろうか。漢字に意味を見出してしまう習慣である。万葉仮名は漢字表記されるがその漢字には意味はない。ただ発音のみである。だから漢字ではあるがカナなのだ。しかし我々の神社研究において漢字の意味は重要でもある。だから難しいのだ。白川静博士の『字統』が必携になる所以でもある。

 

 さて、オオタがWATERであろうと推測したところで、それに似た名称(地名や名字)を考えてみる。

 


たとえば、大和田、大幡(大畑、大畠)、和田、畑(幡、秦、羽田、波多)大田原、小和田、織田、小田、上田、植田、魚田、など。 

なかでも、大和田家の家紋は九曜紋であり、氏神様に白山姫(菊理姫)又の名は水分(ミクマリ=水配り)神を祀ると聞く。その心は明快である。白山姫は水神だからである。龍神である。すなわち、北辰信仰、北極星または北斗七星を奉斎する。

 

それはなぜか。

 

北斗七星はは柄杓(ひしゃく)星であり、雨乞いをするための典型的な対象であるからだ。卑弥呼(ひみこ)は柄杓を持ち、蓑を着て北天に向かって雨乞いの祈祷をした。だから神社の多くは南向きに立てられているのだ。卑、本来は草冠をつけて萆と書かなければならないが字統によれば、萆 の意味はひしゃくである。いやしくなんぞない。この時点で多くの解釈は魏に比べて卑しい国の巫女などという、現代の意味を以って、お門違いの解釈をしてしまうのだ。稲作に水は欠かせない。だから水神、竜神を祀る。そしてそれは女神でなければならない。だから白山姫、菊理姫であり、女王卑弥呼なのだ。国道349号線をはさんだ北西側には、水戸徳川家の墓所瑞龍山があり、薩都神社を見下ろしている。大和田はWATERだった。

 

 余談ではあるが男の意味を『字統』から紹介しておこう。

 

 

 

【男】田と力に従う。力は(すき)の象形。農地の田と耒とを合わせて耕作のことを示すが、古い用法では農地の管理者を言う。中略 一般に男子は、詩篇では士といい、士女と対称するのが例であった。士は戦士階層のもの、男は耕作者地の管理者を意味する。下層の男は夫といい、おおむね農夫であった。後略

 

 

 

よって「男」は農夫を表す。

 

天手力男という神がいるが、まさに農夫を表した名前であろう。

直接に田力とは表記しないが、読み方にはタヂカラオがあり、まさに田

力、男だ。那珂市静の静神社の祭神の一柱だが、光圀が城里町の小坂神社から遷祀した、また境内社に鍬神としてコノ

ナサクヤ姫が祀られていることを見逃してはいけない。土をサクから鍬神

なのだ。

神話では天手力男は天岩戸を開いたことになっており、つまりスサノ

ヲである。本来農夫ではないものを、農夫として祭神にする光圀のこの手

法は、薩都神社を見下ろす瑞龍山に墓所を作ったところにも感じることが

できるのだ。

最後にWATERに関係する誰でも知っている神社について記して、本稿

のまとめとしよう。


 

その神社は、愛宕神社という。

 

あたごさんとか、わだごさん、さらに転訛し、おわだごさんなどと呼ばれ

ている、誰でも知っている神社である。

 

わたごがWATER子であることは、ここまで読んでくれば何の違和感も

ないことだろう。

 

愛宕神社がなぜ火伏せの神なのかは、以上を持って明白だ。水神の子

だからWATER子だったのだ。子は常に母親から生まれる。祭神にな

るほどの水神、龍神である女性から生まれるのであるから、この意味にお

いて、神社に祀られている男神はすべてWATER子ではある。カグツチ

はもとより、スサノヲも建御雷も日本武尊も例外はない。そして女神はこ

とごとく水神、龍神である。これらは、日本語の源流のひとつである、ド

ラヴィダ族のインド東部ガンジス川上流のミナクシ神に由来していたので

ある。典型的な女神の名前はクシナダ姫だ。

古代列島の祭祀の中心は女性であった。

 

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