西村天囚 史料2000点 明治~大正期 論客の漢学者(読売新聞・2017/11/26)

西村天囚 史料2000点 明治~大正期 論客の漢学者(読売新聞・2017/11/26)


阪大の源流 懐徳堂の復興解明カギ

明治から大正期の大阪で論客として活動した、漢学者で、ジャーナリストの西村天囚(てんしゅう・1865~1924年)が残した大量の史料が、天囚の故郷である鹿児島県・種子島の子孫宅に保管されていることがわかった。

天囚は、大阪大の源流の一つとされる学問所「懐徳堂」の復興を主唱したことで知られ、阪大の研究グループが調査に乗り出した。


天囚から3代目にあたる西村貞則さん(70)方に書簡や印章、草稿など2000点に上るとみられる史料が眠っていることがわかったのは、今夏のことだ。

西村さんから遺品の扱いについて相談を受けた、懐徳堂について研究する阪大文学部の湯浅邦弘教授が8月に現地に足を運び、天囚の残したものと確認した。

史料は、約1000通の書簡のほか、蔵書印などの印章63点、アルバム10冊、講義録、草稿などで、東洋学者の内藤湖南や武内義雄、懐徳堂記念会の関係者が天囚に宛てた書簡も多数含まれているという。

天囚は、東京帝大で古典を学び、中退後に大阪の新聞社に入った。

言論活動を展開しながら、明治初期に閉校した懐徳堂を、日本人の精神的支柱を考える場として再興するよう呼びかけ、1910年(明治43年)に懐徳堂記念会を創設させた。

こうした活動は、大阪の財界や言論界からの支援を呼び、16年に新学舎「重建(ちょうけん)懐徳堂」が、現在の大阪市中央区の大阪商工会議所が立つあたりに完成した。

天囚は新学舎で講師として活躍した後、21年に宮内省御用掛となり東京に移り住んだ。24年に没するが、懐徳堂は戦災で焼け落ちるまで続いた。

天囚の死後、蔵書が懐徳堂記念会に寄贈され、現在、阪大にある「懐徳堂文庫」に収められている。

西村さん方にある史料は、遺族が故郷に持ち帰ったものだとみられている。

その中に「讀騒廬(どくそうろ)」としたためられた額もあった。
この額は、天囚の書斎の写真に写り込んでおり、実物が残っていたことになる。清朝時代の考証学者である兪●(ゆえつ)<●は木へんに越>が揮毫きごうしたもので、湯浅教授は「当時、日中の学者が深く交流していたことを示し、文化財的価値も高い」と言う。

今後、湯浅教授ら研究グループは現地調査を進め、史料の保存・修復やデジタルデータ化を進める。
西村さんは、史料を阪大に寄贈することも検討しているという。

湯浅教授は「史料は、当時の文化人の書斎を復元できるほどのボリュームがある。文化人のネットワークを解明できるほか、懐徳堂の復興をめぐっても、新事実が分かる可能性もある」と期待を膨らませている。


<懐徳堂>
1724年(享保9年)、大坂の豪商が出資して創設した学問所。
大坂の学術の発展や商道徳の育成に寄与し、山片蟠桃、中井竹山ら著名な学者を輩出した。
明治維新の動乱で閉校し、1916年に再建された後には市民が学んだ。

 


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