来目皇子遺跡

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糸島の久米神社とは別の分かれ途に行くと、ある案内版に当たります。

 

来目皇子遺跡

見えてきました。

「日本書紀」

即位10年春2月1日。来目皇子(クメノミコ)を新羅を撃つ将軍としました。諸々の神部(カムトモノオ)と国造(クニノミヤツコ)・伴造(トモノミヤツコ)たち、合わせて軍衆(イクサ=軍隊)2万5千人を授けました。 
夏4月1日。将軍、来目皇子は筑紫に到着しました。すぐに進んで嶋郡(シマノコオリ=筑前国志摩郡=現在の福岡県糸島郡北半)に駐屯して、船舶を集めて、軍の粮(カテ=食料)を運びました。 
6月3日。大伴連囓(オオトモノムラジクイ)・坂本臣糖手(サカモトノオミアラテ)はともに百済から到着しました。この時、来目皇子は病気に臥していて、征討できませんでした。

 

島郡に屯営したが、6月に病を得て新羅への進軍を延期とした。征討を果たせぬまま、翌年(603年)2月4日、筑紫にて薨去。周防の娑婆(遺称地は山口県防府市桑山)に殯し、土師猪手がこれを管掌した。

 

その島郡がここということになります。

 

河内国埴生山(はにゅうのやま)岡上に葬られた。現在、同墓は大阪府羽曳野市はびきの3丁目の塚穴古墳方墳・一辺約50m)に比定され、宮内庁の管理下にある。

とありますが、久米神社の伝承では

 

野北村南方に川を隔てゝ山あり其地を総て久米と称す。其地に古墳あり俗に久米様と称ふ。

 

とあります。

父は用明天皇。母は穴穂部間人皇女とありますが、これも伝承では

 

此の御社の近所に一株三幹の古杉あり,俗に久米皇子の御母様の御墓なりしと云ふ。

 

とありますので、穴穂部間人皇女の墓もここということになるようです。

 

この人は聖徳太子の母でもあるようですね!

 

 

 

 


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