大伴咋(おおとものくい)・古代の偉人

大伴咋(おおとものくい)・古代の偉人

6世紀末~7世紀前半

大徳冠か(『続日本紀』天平勝宝元年六月)

大伴連囓・咋子

父は大伴金村。小吹負(吹負)の父。牛養の祖父。「大伴系図」では長徳の父とあるが確かではない。『尊卑分脈』によれば藤原鎌足の外祖父

587(用明2)年に物部守屋の討伐軍に加わり、591(崇峻4)年朝鮮半島に軍事介入をするため大将軍となり、筑紫に出陣したが、翌年の崇峻天皇暗殺により中止となった。

601(推古9)年に新羅が軍事行動を起こしたので、高句麗に使し、後に百済に入ったらしく、翌年百済から帰国した。608(推古16)年に隋使裴世清が来朝し小墾田宮で親書を奉った時、阿部鳥が庭に出てその書を受け、咋はそれを承けて大門の前の机上に置き奏したという。 

この史料は七世紀前半の宮の構造を考える上での重要な素材を与えてくれる。

すなわち、庭とその脇の庁とその空間と内裏とを区切る大門が存在していたことが知れる。

大伴氏は欽明朝に金村が失脚して以来、やや勢力が衰えており、おそらく金村の晩年の子咋も具体的な戦記は伝えられなかったのだろう。(日本古代史人物事典 (新人物文庫)

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