筑前の小京都に薫る志士の魂(産経新聞・2017/7/14)

筑前の小京都に薫る志士の魂(産経新聞・2017/7/14)


秋月藩は福岡藩の支藩であった。幕末の藩主は嘉永・安政期の10代黒田長元、文久期の11代長義、文久~慶応期の12代長徳と続き、長徳の際に明治維新を迎えた。
最後の藩主、長徳は維新後、秋月藩知事に任ぜられた。廃藩後は一時期、秋月県が設置され、やがて福岡県に編入された。現在は同県朝倉市になる。

秋月藩は優秀な人材を輩出した。

8代藩主の長舒(のぶ)、9代長韶(つぐ)の時代、藩校「稽古館」を中心に学問を奨励したからだ。

儒学者の亀井南冥(なんめい)の弟子でもある原古処(こしょ)や、その娘で漢詩人の原采蘋(さいひん)、種痘の創始者で医師の緒方春朔らが、その代表格である。

その影響で、幕末の秋月でも尊王志士が国事周旋に奔走した。

戸原卯橘(うきつ)(継明)と海賀宮門(みやと)(直求)、は尊王論を唱えた秋月藩の尊王志士の代表的な人物である。
福岡藩の平野国臣ら尊王派と交際した。

戸原卯橘は、天保6(1835)年の生まれ。家は代々、秋月藩の医家(御納戸医師)であった。

文久2(1862)年、薩摩藩の島津久光が京都警衛(禁裏守護)を名目に率兵上京するや、海賀や平野ら同志とともに決起しようとした。
だが、伏見の寺田屋事件により同志は壊滅し、連座の嫌疑を受けて国元で謹慎処分を受けた。

文久3(1863)年に脱藩すると中山忠光の大和挙兵に呼応し、平野国臣らとともに生野の変の挙兵に加わったが、敗れて同年10月妙見山にて自害した。
京都霊山護国神社の福岡藩招魂場に、卯橘の墓がある。

海賀宮門は、天保5(1834)年生まれ。
福岡藩や長州藩の尊攘派らと交わった嫌疑で文久元(1861)年に、秋月藩領内の嘉麻郡屏村宇土浦(現在の嘉麻市)に幽閉された。

翌年脱藩して大坂方面に向かい寺田屋事件に連座し捕らえられた。
中心人物の田中河内介父子、千葉郁太郎、中村主計らと薩摩へ海路で護送される途中、日向細島で千葉、中村らとともに薩摩藩士によって無残にも殺害された。文久2年5月であった。田中父子はそれより前に船内で殺害された。

日向細島では、海賀らの遺体を発見した地元の黒木庄八が哀れに思い、現場に近い高島に彼らの御霊を供養した。
検死の際に発見された黄色(ウコン色)の腹巻には「赤心報国唯四字、黒田家臣、海賀直求」とあり、身元が判明した。
高島はいつしか「黒田の家臣」と呼ばれるようになった。

現在では高島付近の丘に改葬された3人の志士(海賀、千葉、中村)の墓碑がひっそりとたたずむ。(三尾良次郎『黒田の家臣物語』)

明治政府は、廃藩置県、廃刀令などかつての政治体制を一新した。すると佐賀の乱や西南戦争など、旧士族による新政府に対する反乱が相次いだ。
秋月でも明治9(1876)年に熊本の神風連の乱に呼応し、秋月の乱が起こる。

宮崎車之助や戸波半九郎ら秋月党を中心とする旧士族約400人が結集・挙兵したが、乃木希典らによる小倉鎮台らに鎮圧された。

また慶応4(1868)年に藩の執政であった臼井亘理(簡堂)と妻の清子が対立派の指示で、暗殺された遺恨に端を発する、明治13(1881)年の臼井六郎による「最後の仇(あだ)討ち事件」も象徴的な事件であった。

秋月は城跡や古い町並みが残り、筑前の小京都と呼ばれる。
城下町には秋月藩・黒田家の伝統や風格が脈々と感じられ、幕末明治秋月藩士の誇りや士気、「赤心報国」の魂を今に伝えている。

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