市原の山村開拓 偉人の生涯描く(読売新聞・2017/6/8)

市原の山村開拓 偉人の生涯描く(読売新聞・2017/6/8)


明治時代に市原市の梅ヶ瀬渓谷を開拓するとともに、私塾「梅瀬(うめがせ)書堂」を開設し、地域の発展に尽力した日高誠実(のぶざね)の生涯をまとめた評伝「房総の仙客―日高誠實―」が刊行された。

深山幽谷の地だった梅ヶ瀬の発展に私財を投じたその生き方が、豊富な資料で描かれている。


◆評伝・日高誠実…君津文化審委員・渡辺さん

執筆したのは、君津市文化財審議会委員の渡辺茂男さん(66)。
同市立久留里城址資料館の古文書講座で近隣の石碑を調べたところ、日高の名前が散見されたことから関心を持ち、9年前から研究を始めた。

渡辺さんによると、日高は高鍋藩の藩士として現在の宮崎県日向市美々津町に生まれた漢学者で、藩校の明倫堂の教授になった。

維新後は陸軍省に入ったが、1886年(明治19年)、50歳の時に市原市に移り住み、梅瀬書堂で周辺地域の青年たちに和学や漢文、英語、数学などの学問を教えた。

その傍ら、当時の県令(現在の県知事)だった船越衛(まもる)の援助を受け、殖産興業にも従事。牧場経営や養魚、シイタケ栽培、植林などを行ったという。

「一人の漢学者が幕末から明治、大正にかけ、どんな理想を描いて生きたのかを知りたかった」という渡辺さんは、日高の著書や日記、陸軍時代に書いた漢詩集、書類等を徹底的に解読。
これまでの評伝ではあまり触れられてこなかった高鍋藩や陸軍時代のエピソードを含めて日高の生涯を克明に調べ、「新しい日高誠実像を提供できた」と自負する。

特に注目したのが、梅ヶ瀬の周辺住民との交流だ。

移住の準備段階から住民が協力し、移住が決まると、住民が道路を作ったり、住まいを建てる手伝いをしたり、梅や栗の木を植栽したりしたという。

日高も、自宅に知人の学者らが訪ねて来ると、住民を呼んで酒を飲んでは漢詩を書き、住民に贈った。さらに、数多くの教え子たちとの手紙のやりとりもあったという。

「日高が中央で活躍していれば、歴史に名を残したはず」と渡辺さん。

「私欲がなく、地域住民や地域社会のために尽くしたいという意欲が旺盛で、今でいう村おこしを住民と一緒にやっているのが彼のすごいところ。その一生懸命さの背景には、武士としての魂があったのでは」と話す。

評伝は創英社・三省堂書店で自費出版した。部数は1000部で、定価1600円(税抜き)。
全国の書店で販売している。


Top