八田皇女(やたのひめみこ)・古代の偉人

八田皇女(やたのひめみこ)・古代の偉人

記紀伝承上の人物

仁徳天皇の皇后

矢田皇女・八田若郎女(『日本書紀』では「八田皇女」「矢田皇女」、『古事記』では「八田若郎女(やたのわきいらつめ)」)

応神天皇の皇女。母は和珥臣の祖日触使主の女宮主宅媛。菟道稚郎子の同母妹

『日本書紀』によるに、応神天皇崩後に兄の太子菟道稚郎子と大鷦鷯(仁徳)が皇位を譲り合い空位三年にわたったが、ついに太子は妹の八田皇女を後宮に入れることを遺言し自害した。

しかし、大鷦鷯は即位後、葛城襲津彦の女磐之媛を皇后とし、後年になって八田を妃としようとしたが皇后は聴かず、天皇は皇后不在の際に八田を宮中にいれた。

皇后は大いに恨み、山背筒城宮を造り居し帰京しなかったという。

仁徳35年に皇后が崩じた翌年、八田が皇后になったが、子はなかったらしい。

また『古事記』には、その御名代として八田部を定めたとある。八田が先帝皇女にもかかわらず妃となるのが遅れたのは、臣下の女にして皇后となった磐之媛の意志によることとなるが、これにはその外戚葛城氏の権勢が背景にある。

以後、履中・雄略天皇も葛城氏の女を妃としており、5世紀前半の政治主体を応神・仁徳王朝と葛城氏の連合体制とする説がある。(日本古代史人物事典 (新人物文庫)
ウワナベ古墳(宇和奈辺陵墓参考地(うわなべりょうぼさんこうち)・奈良県奈良市法華寺町)
宮内庁により、被葬候補者=第16代仁徳天皇皇后八田皇女として陵墓参考地に治定されている。
墳丘長205.4メートルの前方後円墳。

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