128.星宮神社探検記(常陸太田市小島町)

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今回は常陸太田市(旧金砂郷町)小島町の星宮神社です。


以前紹介した、116.雷神社探検記(常陸太田市藤田町)から車で5分程度南西側に位置しています。


茨城県第二位の前方古円墳梵天山からもすぐ近くで、星宮神社自体も古墳時代前期の4世紀に築造さ


れたとみられる全長約100mの前方後円墳になっています。




 




祭神は天御中主命

境内社は諏訪神社(祭神は建御名方命)




古墳の上にある拝殿



由緒沿革を茨城県神社誌より引用します。


応永(1394年)年中下総国千葉郡から高畑家祖当小島へ来住の折奉戴の妙見菩薩で、当国信太郡

ら来住の鴨志田家祖奉戴の鹿島大神とともに当所の鎮守として奉斎。霊験は極めて著しく、氏子は又正

月三ヶ日間魚類断ちをして慎み、今日もその習わしが続けられている。水戸藩時代は由緒ある社として

両社併存の取り扱いをうけていた。天保年間星之宮と改称。明治6年鹿島神社に合併されたが、四十四

年鴨志田長重等の願によって旧に復した。境内地は鴨志田直準所有地、前方後円墳上、同家又左衛門

水戸藩主からの拝領山、一名すは山ともいひ、末社諏訪明神が鎮座していたところ。


この由緒からは以下のようなことがわかります。


①応永時には少なくとも妙見菩薩が祀られたこと。

②その前後において、鹿島大神も祭られたこと。

③古墳の上にはもともとは「すは山」といひ諏訪明神が鎮座していたこと。

④鴨志田氏は信太出身の賀茂(加茂)氏であると推測できる。


しかし下図のように神社の向きは南向き(北を向いて遥拝する)ではありません。南南東向きになってい


ます。したがって妙見菩薩を祀っていたことは疑わしいことが推測できます。





星宮神社の方角(いつもの反対で下側が向いてる方向)

鴨志田氏奉祭の鹿島大神は、ここからすぐ東側の林(ここも全体が古墳だろうと思われる)に鹿島神社


があるのでそちらに祀られたのでしょう。


鹿島神社はほとんど南向きですから、妙見菩薩も実はこちらに祀られていたのかもしれません。



  
鹿島神社拝殿                        本殿 千木は男千木

 



鹿島神社の向き(南向き)


茨城県神社誌に記載はありませんが、星宮神社には境内社として八坂神社(スサノヲ)が祀られていま


した。



さて千葉から移り住んだ高畑氏ですが、名字由来netさんのHPによれば、


現島根県西半部である石見国村智郡高畑村が起源(ルーツ)である、清和天皇の子孫で源姓を賜った

氏(清和源氏)小笠原氏流がある。ほか大神氏、越智氏(物部氏の子孫)、平氏などにもみられる。「高」

は高い様を表す


とあり、一筋縄ではいかない名字のようです。どうにでも解釈できる名字ですね。中には畑がつくから秦


氏の流れだとしてある解説もありました。また、高がつくのは済州島出身者に多いという説もあるようで


す。説ですから、当ブログのように何でもありでよいのでしょうが、少なくとも当ブログはしっかりと論理と


裏づけをとっております。(笑)


妙見信仰といえば千葉氏が有名です。子孫の千葉周作が創始した剣術は、したがって北辰一刀流にな


るのです。


次に信太郡の賀茂氏であろうと推測した鴨志田氏ですが、この「鴨」はどちら側の「鴨」系に相当するの


か興味深いところです。後世、藤原と名乗った系統なのか、鴨玉依姫の系統、すなわちヤマトタケル系


統であるのかということになります。


鴨志田氏が信太郡の「賀茂氏」であると推定し考察を進めます。


信太郡はWIKIに依れば、


『常陸国風土記』によると、白雉4年(653年)、小山上物部河内、大乙上物部会津らが、惣領高向の大夫

らに請いて、筑波と茨城の郡の700戸を分かちて信太の郡を置けり、この地はもと日高見国なり、とされる。

後の『和名類聚抄』には、大野・高久・小野・朝夷・高田・子方・志万・中家・嶋津・信太・乗浜・稲敷・阿弥・駅家の14郷が載せられ、郷は即ち里であり五十戸なので、『常陸国風土記』の700戸と整合し14里の郡であったことが判る。これは行方郡の15里、700戸と同等であり、香島郡の3倍である。また、行方郡など他

の常陸国の豪族には壬生氏の名が上げられることが多いが、当郡では物部氏が上げられ、香取海の対岸の下総国との関係をうかがわせる。式内社に楯縫神社阿彌神社があり、香取・鹿島両神宮との関係

もうかがわせる。


常陸国信太郡の位置は下図になります。



例によって口訳・常陸国風土記さんのHPより引用



◆ 六、茨城郡 「水泳る茨城の国」

 

あるとき、大の臣の一族の黒坂命が、野に狩りに出て、あらかじめ彼らの住む穴に()の刺を施し、

然、騎兵を放って彼らを追ひ立てた。佐伯たちは、あわてて穴に逃げ帰ったが、仕掛けられた茨の刺

がからだ中に突き刺さり、あへなく皆死んでしまった。このときの茨から、茨城の名となった。 諺に「

()る茨城の国」といふ。
別の話では、山の佐伯、野の佐伯は、山野の賊を率ゐて自ら長となり、国中を盗みや殺しをして廻って

ゐた。彼らと戦ふために、黒坂命は、茨をもって城を造った。その土地の名を茨城といふやうになった。

◆十二.補遺 風土記逸文などから


(多珂郡、信太郡)
 黒坂命が陸奥の蝦夷を言向け、凱旋して多珂郡の角枯之山まで来たとき、病のためここで亡くなった。

このとき角枯を黒前山と改めた。黒坂命のなきがらを乗せた車が、この山から日高見之国に向かった。

葬列の赤旗、青旗は入り交じって翻り、雲を飛ばし虹を引いたやうで、野や道を輝かせた。このことから

幡垂(はたしで)の国といったが、後に縮まって信太(しだ)の国といふ。

 

このように黒坂命は茨城の名前の元になったといってもよい命です。信太の元になったとも言えるでしょ


う。黒坂命は大の臣の一族となっていますから、多氏、すなわち鹿島大神の子孫ということになります。


常陸国北部の神社を見て回れば、われわれの系図で言う海幸彦(鹿島大神=タケミカヅチ)-コノハナサ


クヤヒメの子孫の系統とナガスネヒコ(岐神=大戸道=カガセオ)が目につくことに気が付くことでしょう。


黒坂命はその名前からもサカ族であることが判ります。黒はタケコロにもつながってきますから、ヤマトタ


ケルの一つの名前と考えることができそうです。


このような流れから考えれば、信太は正統派(後に言う藤原ではない勢力)の本拠地のような印象を持


ちます。であれば鴨志田の鴨は鴨玉依姫の鴨であるということができそうではあります。


鴨玉依姫の鴨と賀茂別雷の賀茂は、百嶋系図では一族とされていますが、これは百嶋先生がどうして


も隠す必要があったためだとわれわれは考えています。(神社との約束)


鴨の本来の意味は、甲の鳥です。


コウノトリです。つまり太陽から子孫を運んでくる子宮の形を表したものになります。


104.御上神社探検記を参照ください。


河野は「孝霊天皇の」だと百嶋先生は説明しておられましたが、甲の鳥、が河野の大元になるものと考


えています。つまり「孝霊天皇の」と言った場合の孝霊天皇は鴨玉依姫を意味することになります。


鷲子山上神社の近くに住む川野氏や同じく丸に剣方喰の家紋を使っている河野氏は、本来の家紋橘紋


を隠してきたのかもしれません。本来の家紋を橘とするのは、父方が鴨玉依姫と天日鷲(比多珂)の子


のタジマモリで、母方が神主玉(百嶋系図では男)だからです。神主玉を祀る神社は桜川市(旧岩瀬町)


におそらく日本で一社だ祀られています。(ああ、桜子や・・・)


橘紋は立葵紋にも置き換えられます。


だからこそ折敷にちじみ三文字をつかう現在の大山祇神社はすで津の渡しの手に落ちていると思われ


るのです。本来は橘紋でなければなりません。


ウマシアシカビヒコチからの越智系がオキツヨソ足姫の性癖により分岐されたことを意味しているの


です。


常陸鴻巣(現在の那珂市鴻巣)にある神社は鷲神社で、祭神は天日鷲です。


われわれの系図では鴨玉依姫の夫である彦太忍信(比多珂)です。そして信太は彦と無関係で


はなさそうな事が推測できるのです。




星宮神社前から遠く高鈴山(たかすずさん)を望む 


常陸国で水戸から北方を眺めた時に一番目につく山が高鈴山です。常陸国風土記に出てくるカビレの


高峯は左側に見える峰続きの低い山です。写真には移ってはいませんが、遠くに見えるやまなみのずっ


と左側には、黒坂命の角枯之山(竪割山)がそびえています。


高鈴山が北部常陸の古代史の鍵を握っていると、根拠は薄いけれど、直観がざわめき立ってきていま


す。現在では完全に祭祀の跡はないことが通説になっている高鈴山に祀られていた「こうれい」とは果た


してどの孝霊になるのだろうか。



百嶋由一郎先生の講演会CD、資料、神代系図を入用の方は、常陸国ふしぎ探検隊河野まで。

メール k_kplanning @yahoo.co.jp


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