⑩蘇奴國⑪呼邑國⑫華奴蘇奴國⑭為吾國

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【反時計回り連続説】(その16)

 

今回は最後まで残った、⑩蘇奴國⑪呼邑國⑫華奴蘇奴國⑭為吾國の四国です。

この四国を比定し終りますと、連続する二十一国が全て比定完了となります。

但し、残された四国は国名の類似からの比定が難しく、

今回も【反時計回り連続説】を最大限活用し、

既に比定を終えた国の間にこの四国を順番に当て嵌めていきたいと思います。

そこで今回も又、前回までに比定完了した15国を挿入した倭国地図を再掲します。

 

 

どうでしょう。此処迄は見事に二十一国中十五国が反時計回りに連続して並んでいます。

あとは、残った未比定領域に、上記の四国を挿入するだけとなりました。

但し、ここで留意せねばならぬ点は、『魏志倭人伝』に「女王に属せず」と記される【邪馬台国】の南に在る【狗奴国】の領域には【女王国連合=倭国】の構成国は含まれないことです。

これは『魏志倭人伝』に「女王の境界尽きる所」と記される【奴国】~英彦山山系よりも北の国が【女王国連合=倭国】に含まれないのと同じことです。

しかし、結構未比定領域が残っているものですね。

残り四国でこの未比定領域を全て埋め尽くすのは無理だと思われます。

 

⑩蘇奴國(そなこく)

 

【反時計回り連続説】から⑨対蘇国の次に繋がる地域には⑩蘇奴国が有ることになります。

そこで私は佐賀県鳥栖市に隣接する福岡県久留米市から大川市及び浮羽市の領域、

即ち筑後国御井(みい)郡、三潴(みずま)郡、竹野郡辺りを⑩蘇奴国に比定します。

 

安本美典氏はこの地域を⑤彌奴国⑦不呼国或いは⑧姐奴国に比定されています。

橋本増吉教授のこの地の比定国は⑧姐奴国と⑭為吾国です。

勿論【反時計回り連続説】を採用する私はそれ等の国をこの地には比定しません。

 

では次に考えねばならないのは、位置情報以外にこの地を⑩蘇奴国とする理由ですが、

先ず⑩蘇奴国は奴の付く国なので、那(港)を有する国でなければなりません。

その点久留米は筑後川流域に有り、有明海に注いでいます。

現在でも旧三潴郡辺りには有明海と筑後川を結ぶ港が多数みられます。

 

この三潴郡は元々水沼(みずぬま)君と呼ばれる海人族の本拠地とされる地で、

弥生時代には明らかに海人族水沼君が活躍していた国でした。

三潴郡辺りは三日月湖が多数出来ていたので、水沼⇒三潴と呼ばれたのでしょう。

筑後川下流域はつい最近の昭和期迄、日本住血吸虫症と云う風土病のある地域でした。

昔からこの川の流域に住む人たちの殆どが子供時代日本住血吸虫に罹患し、

大人になると必ず日本住血吸虫症を発生するので、多くの人が40~50歳で死んでいました。

おかげでこの辺りは魔の地域として恐れられ、子を嫁にやれない地域でありました。

しかし、現代では護岸工事が行き届き、宮入貝の生息地を埋め立てましたので、

AD2000年の宮入貝の絶滅宣言と共に同地域での日本住血吸虫症も撲滅されました。

 

日本住血吸虫の宿主・宮入貝 筑後川流域では現在絶滅したと考えられているが

千葉県の利根川下流域、山梨県の甲府盆地には現在でも生息が確認されるらしい。

但し日本住血吸虫症は1978年以来、国内で新患が出ておらず、日本での住血吸虫は撲滅されたと思われる。

 

日本住血吸虫 オスとメスが絡み合っている。大きいのがメス。

人間や家畜などの肝臓に寄生、虫卵が肝静脈に詰まるため、肝臓を破壊し、肝硬変と為す。

経皮感染の為、子供の頃の水遊びで感染する。

 

西暦2000年、筑後川流域では宮入貝が絶滅し、同地域での日本住血吸虫症の終息宣言が出された。

 

私は水沼君が弥生時代に【蘇(そ)族】と呼ばれており、

水沼君=蘇族の支配する奴国だから、三潴郡は蘇奴国だったのではないかと考えました。

この話は勿論想像にすぎませんが、三潴郡が水沼君の所領域だったことは確かです。

『記・紀』はこの辺りの歴史を、天照大神と須佐之男命の誓約の話として記しています。

『日本書紀 卷第一 第六段 一書第三』には、

宗像三女神が「筑紫水沼君等の祭神なり」と記されており、

宗像族と水沼君が同族であったことが示唆されます。

 

因みに私は宗像族や水沼君は共に秦氏=物部氏系の海人族だと考えています。

即ち、徐福=須佐之男命が斎国の琅邪台から連れてきた三千人の童男童女と百工たちの

子孫のうち海や川に関する知識に長け、航海や漁業に精通した者達のことです。

徐福一行が作ったと思われる吉野ケ里遺跡にほど近いこの地は、

徐福系海人族の本拠地としては、極めて適当な地でありましょう。

それに対し、安曇族や住吉族は呉人或いは越人=江南系の海人族と考えられます。

 

だとすると、

秦氏=物部氏は倭国大乱後、倭国を追い出されて、芦原中国へ移動したはずだが、

「物部氏系の海人族である宗像氏の一族=水沼君が、何故倭国内に存在するのだろう?」

との話になりますが、

 

宗像氏と水沼君は元々は同族で、秦氏=物部氏系の海人族だったものが、

倭国大乱=天照大神の窟屋隠れの後に物部氏は倭国=高天原から追放されたのに対し、

有明海から筑後川にかけての水系に長年拠点を築いてきた水沼君は、

周辺国が全て倭国=女王国連合の構成国となってからも、

自分達の支配地を捨てて他所へ出て行くわけにもいかず、

やむなく仲間の秦氏=物部氏と袂を別かち、

倭国=女王国連合の一員となったとも考えられます。

もしかしたら、日本住血吸虫症の有るこの地を嫌った水沼君の一部がこの地を捨て、

目立った風土病の無い宗像の地に新たな居住地を開いたのかもしれません。

以上、私の想像に過ぎませんが、数々の根拠もあることなので、一応押さえておいて下さい。

 

⑪呼邑國(こゆうこく)

 

次に又もや地名からの比定が困難な国が、⑪呼邑(こゆう)国です。

上の項で、⑩蘇奴国=御井郡、三瀦郡、竹野郡=久留米辺りを一応認めて戴いた処で、

【反時計回り連続説】から次に繋がる国は、筑後山門國となります。

しかし、同地は邪馬台国に比定されますので、飛ばさねばなりません。

邪馬台国は例によって、

簡略化の大好きな『魏志倭人伝』の著者・陳寿により、

記載を省略されたものと思われます。

考えてみると陳寿が此の場面で、「次有邪馬台国」の一文を省略さえしていなければ、

千七百年もの間、邪馬台国の位置が解らないことも無く、

所謂邪馬台国論争が起こることも無かったでありましょうに・・・、

残念なことにも思えますが、陳寿のこの省略癖おかげで、

後世の人の古代史ロマンが掻き立てられたことにもなりますので、

陳寿に感謝しなければなりませんね、

・・・特に私なんかは、・・・・・・。

 

しかしそうなると、筑後山門の次に繋がる⑪呼邑(こゆう)国は、

筑後国八女(やめ)郡、即ち、現在の八女市辺りとなるはずですが、

八女(やめ)と呼邑(こゆう)には、名称の類似は全く見当たりません。

八女が持統朝期に二つに別けられた時の上妻・下妻(つま)でもやはり同様です。

そこで昔からの地名が何処かに残っていないか、八女の主要地域を探したところ、

八女郡黒木(くろき)町の発音が気になりました。

黒木町は、あの女優の黒木瞳さんの故郷であり、黒木の大藤で有名な所です。

この黒木(くろき)と呼邑(こゆう)の発音は似ているように思えませんか?

 

 

黒木(くろき)の発音が帯方郡使には呼邑(こゆう)に聞こえた可能性はないか?

或いは元々呼邑(こゆう)だったのが、時代と共に黒木(くろき)に変わったのではないか?

何れにせよ、黒木(くろき)と呼邑(こゆう)との関係は、かなり根強いものが感じとられ、

私は⑪呼邑(こゆう)国を黒木町を中心とした筑後国八女郡に比定します。

 

この説に反対の方も多いとは思いますが、【反時計回り連続説】からは、

同所に他の地域はありませんので、こう考えざるを得ないと思われます。

 

因みに安本美典氏は呼邑を(をい)国と読んで、肥前国小城(おぎ)郡に比定されています。

橋本増吉は肥後国川内(かわち)郷とのことで、現在の熊本市辺りに当たります。

何れも、【反時計回り連続説】からはまったく容認できない説です。

 

⑫華奴蘇奴國(かなそなこく)

 

次に⑫華奴蘇奴(かなそな)国です。

⑩の蘇奴国と似ていますが、似ているのは名前だけではありません。

⑪呼邑(こゆう)国が筑後国八女郡だとしたら、次に繋がる地域は、

豊後国日田郡(旧日高郡)、現在の大分県日田市となります。

日田郡は南北に長く、北の方は⑰躬臣(くす)国に比定した地域と重なっており、

現在の日田市中心地の豆田地域などはこの辺りになるのですが、

南の方はついこの間(2005年)まで、

日田郡上津江・中津江、前津江の三津江村と呼ばれていました。

私は弥生時代には、この辺りに⑫華奴蘇奴国の中心地があったものと考えます。

 

三津江村の中でも中心地の中津江村(現在は日田市中津江町)は、

2002年の日韓合同開催サッカーワールドカップの時に、

当時の坂本休(きゅう)村長がアフリカのカメルーン代表のキャンプ地として、

中津江村のグラウンドと宿泊施設を提供したことで話題となりました。

 

ではこの日田郡三津江地区辺りがなぜ華奴蘇奴国なのかを考えてみると、

この地は筑後川の源流部に当たります。

筑後川と云えば、下流部の三瀦郡は水沼君の所領地の⑩蘇奴国であることからも、

筑後川流域一帯は海人族・水沼君の活躍する地域だったのは、至極尤もな話です。

更にもう一つ、旧中津江村には鯛生(たいお)金山があります。

この金山は、明治時代に発見され、昭和中期まで栄えた金山なのですが、

金鉱脈は太古の昔から有ったはずで、

弥生時代には既に、同地で金が採れていた可能性もあるわけです。

なにしろ筑後川流域を収める蘇氏=水沼君は、

元々が鉄や銅の金属の民とされる秦氏(Hatti=ヒッタイト)の子孫ですから…

更に山奥の金山に鯛(たい)の名が付くことからも、海人族との関係が示唆されます。

即ち金の採れる蘇奴国と云うことで、三津江の地は弥生時代の倭人が、

金蘇奴国と呼んでいたのが、郡使に華奴蘇奴国と書かれた可能性がある。

 

ところで安本美典氏は華奴蘇奴国を(かなさきなこく)と読んで、

肥前国神崎(かんざき)郡に比定されます。

これは橋本増吉教授も同様です。

私は前述したように、神崎郡は⑧姐奴国に含まれると考えています。

 

⑭為吾國(いごこく)

 

遂に最後になりましたのが、⑭為吾(いご)国です。

 

この国を安本美典氏は出雲国宇迦(うか)山に比定されますが、この地は

「女王の境界」を遥かに逸脱した地であり、とても許容できる説ではありません。

橋本増吉は筑後国生葉郡に比定しますが、私はその地を⑩蘇奴国に比定しています。

 

私は⑭為吾(いご)国を、【反時計回り連続説】を使って、

⑬鬼国(久住山系)と⑮鬼奴国(別府・湯布院)の間にある地域と云うことで、

豊後国大分郡、現在の大分県大分市辺りに比定します。

では何故⑭為吾(いご)国が大分なのかと云うと、

確かに(いご)は豊後(ぶんご)に音の響きが似ていますが、

豊(とよ)の国が豊前と豊後に分かれたのは七世紀の末らしいので、

弥生時代には勿論豊後国の名前はありません。

では大分(おおいた)はどうなのかと云うと、

『豊後国風土記』によると、景行天皇が九州に巡幸した際に、大分の地形を見て、

広く大きいので碩田国(おほきたのくに)と名付けたのが訛ったとされます。

しかし、『風土記』や『記・紀』の記載は、

例えば神功皇后が皇子を産んだから、産み国(筑前国宇美)と名付けたとか、

神功皇后が羽白熊鷲との戦いに向かう途中、急に風が吹いて被っていた笠が飛び、

森の木の枝に引っかかったから、其の地が御笠の森と呼ばれるようになったなど、

明らかに後付けの話が多いようです。

即ち、弥生時代から大分は(おおいた)(おういた)と呼ばれていた可能性があります。

 

では何故大分かと云うと、考えられるのは、

この地には昔から王が居たから(おういた)なのではないか?と云うことです。

大分は北海部(あまべ)郡に当たり、海人族の拠点だったらしい。

その海人族の王の居城は現在の大分市大在地区に有ったと思われる。

大在=王在(おうざい)地区の近辺には亀塚古墳や築山古墳など、

古墳時代の大きな(全長116m)程の前方後円墳が見られます。

 

 

古墳時代の大分に地域王が居たと云うことは、弥生時代にも居た可能性が高い。

弥生時代は倭人は当地を大分(おういた)=王が居た国と呼び、

それを聞いた帯方郡使は、

為す(居る)吾(ご=王)の国、即ち、為ㇾ吾国と書いた可能性がある。

 

更には大分の王の名前もなんとか解ります。

『古事記』『日本書紀』によると、

ニニギの命が高天原=邪馬台国から日向国の高千穂に天孫降臨する途中、

大分の辺りでいきなり、天忍日命と天久米命が出てきて、瓊瓊杵尊の先立ちとなります。

天久米命は天忍日命の部下とされるので、天忍日命がこの辺りの王族と考えられます。

その天忍日命の子孫は大和朝廷の豪族である大伴氏とされています。

そして後の時代となっても、大分の地には大伴氏=大友氏の地盤があるわけです。

中でも戦国時代の大友宗麟は有名です。

つまり弥生時代の大分には海人族王の大伴氏が居たから、

同地は帯方郡使に、為吾国と書かれた。

 

以上、⑩蘇奴國⑪呼邑國⑫華奴蘇奴國⑭為吾國の四国を倭国地図に挿入しました。

 

 

今回比定した、⑩蘇奴國⑪呼邑國⑫華奴蘇奴國⑭為吾國を赤丸で囲みまして、

これで連続する二十一国全ての比定が終了したことになります。

 

 

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