2人の熊本人 慎重期した教育勅語(産経新聞・2017/5/19)

2人の熊本人 慎重期した教育勅語(産経新聞・2017/5/19)


明治政府は西欧流の教育制度を導入した。国力の源である科学技術分野で、先進国に追い付くことが最重要課題だったからだ。しかし急速な欧化によって、わが国の価値観・道徳観が大きく揺らいだ。
深まる混迷を払おうと、2人の元熊本藩士が「教育勅語」を作り上げた。

「教育の目的は、人の道を全うすることである。しかし近年、知識や才芸ばかりがもてはやされ、教育を受けたとしても品行が悪かったり、風俗を乱す者が多い。それは本末転倒だ」

明治12(1879)年、明治天皇(1852~1912)から政府幹部に、それまでの教育政策を批判する文書が下された。
「教学聖旨」と題されたこの文書は、天皇の命で、元田永孚(ながざね)(1818~1891)が起草した。

元田は、熊本藩の上級藩士の家に生まれた。
福井藩の藩政改革などで功績を残した同郷の儒学者、横井小楠の薫陶を受けた。

政争に巻き込まれ、能力を発揮できないまま、隠遁(いんとん)生活に入った。歴史の表舞台に現れるのは、50歳を過ぎてからだった。

明治4年、熊本藩知事となった細川護久の政治顧問として上京した。
元田は細川を通じ「廃藩置県」構想を提案し、政府の実力者、大久保利通(1830~1878)から着目された。

政府は、明治天皇に儒学の授業をする「侍講」を探していた。大久保は元田を推挙した。元田は全身全霊を注いで、明治天皇に君主としての姿勢、心構えを示した。

夢にまで明治天皇の姿を見たという。
「君を愛する心があれば、必ず夢に見る。お仕えしながら、夢を見ないようであれば不忠の証拠だ」

元田のこの姿勢に、明治天皇は深い信頼を寄せた。

元田は、儒学の理想に基づき、天皇を高い徳を持つ為政者とすることを重視した。いわば江戸時代以前の伝統にのっとった帝王学であり、政府の文明開化路線とずれがあった。
このずれが、一連の教育論争を生む。

明治11年夏、明治天皇は地方行幸(ぎょうこう)で、教育現場を見学した。

高校に相当する学校で、国語の教科書に、洋書の翻訳本が使われていた。別の授業では、生徒はすらすらと英語でスピーチするが、内容を日本語で説明できなかった。
明治天皇、そして元田は、教育の欧化による「歪み」と考え、危ぶんだ。

「わが国を支えてきた規範意識が失われてしまう」。この危機感から「教学聖旨」が生まれた。儒学的価値観に基づく道徳教育を、政府に求めた。

政府側にとっては心外だった。

明治維新は、「欧米列強の植民地となりかねない」という危機感を下地に成立した。「富国強兵」「殖産興業」は単なるスローガンではなく、日本が独立を維持する唯一の道だった。
西欧列強との力の差を埋めるには、一刻も早い国民全員の底上げが必要であった。政府関係者は、知識教育を重視するほかないと信じた。従来の道徳・倫理教育は、こうした近代教育の障害になると考えた。

また、天皇親政を求める元田ら宮中グループと、薩長土肥を中心とする新政府側の主導権争いもあった。
だからこそ、「教学聖旨」を読んだ長州藩出身の伊藤博文(1841~1909)は激怒した。教育論にかこつけた政争と受け取ったのだった。

伊藤は元田と同じ熊本出身の井上毅(こわし)(1844~1985)に、「教学聖旨」への反論をまとめるように命じた。

井上も、元田と同様に横井小楠の影響を受けて成長した。しかし、維新後に渡欧し、西洋を見聞した結果、元田ほどは儒学を絶対視しなかった。
「維新以降の方針を撤回することは、あってはならない。近代国家として信教の自由を認めようとするなか、儒学を『国教』とし、政府が統制するような道徳教育は難しい」
井上がまとめた反論文書を、伊藤は明治天皇に上奏(じょうそう)した。


明治23(1890)年2月、状況が一変した。
全国の府県知事らが参加する地方長官会議が、次のような建議を採択した。

「現行の学制は技術知識のみを重視し、徳育が欠け、軽薄な人物を生み出している。救済策を講じることは急務だ」

当時の知事は官選だった。いわば地方官僚が、中央政府の教育改革を激しく批判した。
この年の7月、帝国議会の第1回総選挙が予定されていた。国内では藩閥政治を非難する自由民権運動が盛り上がった。欧米に目を転じれば、社会主義運動が高まっていた。
現体制を否定する国内外の思想に、明治政府内部にも「行き過ぎた欧化主義」への懸念が生じた。

何より、西洋にならった教育制度を、信念を持って推し進めた森有礼(ありのり)が、前年の22年に暗殺されていた。

明治天皇は地方長官会議の後、文部大臣の榎本武揚に「徳育の基礎となる箴言(しんげん)の編纂(へんさん)」を命じた。文書は天皇の言葉=「勅語」とすることになった。

最初、帝国大教授の中村正直(まさなお)が勅語の原案を作った。そこにはキリスト教的な表現が多く含まれた。
内閣法制局長官だった井上は「特定の哲学理論が含まれ、学術論争を引き起こしかねない」と批判した。

井上は考えた。「勅語は特定の宗教・宗派はもちろん、漢学にも洋学にも偏ってはならない。政治上の臭みを避け、誰もが天皇の御言葉として受け止められるものでなければならない」
勅語の私案を作成した。

井上の念頭にあったのは、神話や歴史書が示すわが国の「あるべき姿」だった。そこには高い人徳を持つ天皇と、団結して忠義を尽くす民がいた。
井上は、儒学の経典を活用したが、丸写しではなかった。

例えば、「孟子」には、守るべき倫理として「父子に親あり。君臣に義あり。夫婦に別あり。長幼に序あり。朋友に信あり」とある。
これに対し、井上の案は「父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ」とした。日本古来の道徳観が息づいていた。


井上は、私案を元田に見せた。2人は「教学聖旨」をめぐる論争で、激しく対立した。だが、古典に詳しく、明治天皇が信を置く元田への根回しは、不可欠だと考えた。
元田は明治天皇の命として、「廉恥(れんち)を重んじ」など儒学の経典の文言を用いるよう求めた。
井上は、根幹の変更は拒否した。

「漢学風の文言を入れてしまえば、永久不変の文章としてふさわしくない」

井上の断固した姿勢に、元田もそれ以上は反論しなかった。井上はさらに、勅語の形式にこだわった。
通例と異なり、大臣の副署を求めず、官報でも法令・省令とは別に記載した。国家としての行為ではなく、あくまで君主の言葉という形にした。国民の思想信条の自由を侵さないという配慮だった。

明治23年10月30日、教育勅語は、渙発(かんぱつ)された。
「皆、その徳を一にせんことをこいねがう」。そう結ばれた勅語が示され、徳育論争は沈静化した。
見届けた元田は、翌年1月に亡くなった。

教育勅語は日本人の道徳や倫理観の根源として、定着した。

ドイツ人神父で、上智大学や栄光学園で教鞭(きょうべん)を執ったグスタフ・フォス(1912~1990)は「教育勅語はカトリックの倫理綱領と同じであり、日本人としての根本倫理を表したものだ」と評価した。
フォスは敗戦後、「戦前」すべてを否定する風潮が日本で高まる中でも、朝礼などで教育勅語を生徒に教えたという。


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