一足跳びにスターダムにのし上がった俳人・芭蕉&素堂

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一足跳びにスターダムにのし上がった俳人・芭蕉&素堂
『松尾芭蕉の謎』河野亮氏&アカポリス21研究会 著 平成5年刊
 
宗因の歓迎百韻俳諧興行に参加した翌延宝四年(一六七六)、芭蕉は山口信章と共著で
『江戸両吟集』を出版した。山口信章(一六四二~一七一六)は後になって山口素堂と名乗った俳人である。甲斐国(山梨県)の酒造家の御曹司で、北村季吟の門人であった。芭蕉はこの頃、俳人として世に名が出ていたわけでもなく、金銭的に裕福だったわけでもない。あいかわらず肉体労働にいそしむ毎日を送っていた。素堂が、見るからに肉体労働者という芭蕉と共著で本を出版した事実には、何かわけがあったように思えてならない。
 芭蕉は、野心はあるがどちらかといえば無一文である。俳人としても本を出版できるほどの名声はない。まだまだ駆け出しといった方がいい状況にあった。
 片や素堂は、富裕な造り酒屋の長男である。林羅山を父に持つ高名な儒学者・林鷲峰(一六六~一六八〇)に儒学を学んだり、書・和歌・茶の湯などもたしなんだりする、みやびな風流人だ。
 芭蕉と素堂との出会いは、いつかは判明していないが、宗因の歓迎百韻俳諧興行あたりであろうと思われる。芭蕉の生年は正保元年(一六四四)頃とされているから、素堂とは年齢が非常に近く、俳諧興行に不慣れな芭蕉を手引きしてやるにはちょうどいい条件であったといえよう。
 さて俳人は、公家や富裕な武家に出入りしたりパトロンとなってもらぃながら、折々に俳諧を詠んで主家の人々を楽しませるのが仕事である。いわば平和産業の典型のようなものだ。芭蕉はそれをめざしていたのだが、大して才能を発揮しない地方出身の一青年のパトロンは、簡単に見つかるものではなかった。
 すでに三十歳を超えながら、肉体労働で生計を立てねばならない芭蕉にとって、素堂との出会いは千載一遇のチャンスだったにちがいない。
 とにもかくにも、芭蕉と素堂は意気投合した。
 素堂は芭蕉をつれて、あちこちに顔を出すようになる。と同時に、共同で興行を催すが、そ
の主導権が素堂に握られていたことは想像に難くない。
宗因の歓迎百韻俳諧興行の翌年、芭蕉は素堂(当時信章)とともに、「天満宮奉納二百韻」を興行した。それを書物にまとめたのが『江戸両吟集』だったというわけだ。
   台所より下女のよびごゑ    桃青(芭蕉)
通路の二階は少し遠けれど    信章(素堂)
   かしこは揚屋高砂の松     桃青
とりなりを長柄の橋もつくる也  信章
   能因法師若衆のとき      桃青
照つけて色の黒キや侘つらん
その翌年の延宝五年(一六七七)には、芭蕉は内藤風虎主催の「六百番俳諧発句合」に参加する。これは北村季吟らの判によるものであった。
素堂との出会いによって、一漢人へのステップを駆け上がる芭蕉は、素堂の援助を受けながら、肉体労働で口に糊するかたわら方々の句会等に顔を出し、素堂と共著を次々と出版するなど、あっという間に俳諧のスターダムヘとのしあがっていったのである。
延宝八年(一六八〇)、芭蕉が江戸へ出てきてほぼ十年の歳月が流れていた。芭蕉はすでに門人を数人抱える大前の俳人となっていた。この年の四月には、独自に『桃青門弟独吟百歌仙』を出版するまでに成長し、冬には深川の草庵に入るのである。
草庵に入った芭蕉は、剃髪し、これを境に作風を思い切って方向転換している。貞門派がはやれば貞門流に、談林派がはやれば談林流に‥‥‥と風見鶏的に俳諧を詠んできたのを、突然やめるのだ。これまで誰一人として行っていない、わび・さびを基調とした「蕉風」は、このとき以降、泉のように湧き出してくる。これは、芭蕉が、精神的にも経済的にも、完全に独立したことを世間に知らしめる、壷の腎ったのではあるまいか…。
「泊船堂」と称するこの草庵、後に」「芭蕉庵」と呼ばれるようになるのである。


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