自元寺由緒書末尾『馬場美濃守信房公の子孫』史跡保存館発行

自元寺由緒書末尾『馬場美濃守信房公の子孫』史跡保存館発行

自元寺開基馬場美濃守信房始メ号教来石民部少輔到信玄公美濃守信房改被下信虎・信玄・勝頼三代武田家爪之老臣云
享禄四年十八歳ノ初陣ヨリ数十余度ノ戦ニ高名ヲ露シ一生終ニ疵ヲ不蒙然而
天正三年乙亥年五月二十一日於三州長篠合戦引受け家康・信長等大敵其日兼而遺言シテ思定メ討死にスト云長篠ノ橋場ヨリ只一騎取テ返シ深沢谷ノ小高キ処ニ駆ケ揚リ馬場美濃行年六十二歳首取リテ武門ノ眉目ニセヨト呼ハリケレバ敵兵聞テ四五騎四方ヨリ鑓ヲ付信房太刀ニ手ヲ掛ケズ仁王立ニ成テ討セシハ前代未聞ノ最期也  
首ハ河合三十郎ト云者討取ル 兼テ遺言ヲ承リシ家臣原四郎遺物遺骨を持来於甲州自元寺法事等相勤 
法名乾叟自元居士 墓所白須有也

享保十二年丙牛年江戸大塚住旗本大番馬場喜八郎殿ヨリ被来享保十二ノ冬御位牌修補成リ越方金一歩書状等御差添向陽院古同ト申僧ノ状相添被越候、此方ヨリ返事礼状仕候喜八郎殿知行四百石余 自元寺住職恵光代

一、馬場美濃守信房 号 
   乾叟自元居士、馬場民部少輔信忠 又云フ初ニ信春於信州深志城討死
一、号 信翁乾忠 此ノ二代御位牌立成過去帳記載有之候

一、馬場民部少輔信義初号 勘五郎 此代家康ヘ御奉公相勤候

自元寺 馬場美濃守の位牌

正面  開基馬場美濃守源公法号乾叟自元居士
右   柳営幕下小臣武州豊島郡大塚公五世胤馬場喜八郎義長旧名義教拜白
左公七世外孫出家得法同牛込竜山松源禅寺 向陽院惟庸字古同敬書
裏面  信州槙嶋城主甲国武田舊臣新羅后胤馬場美濃守源公諱信房始稱敬禮
師民部少輔諱正光天正三年乙亥五月廿一日六十三歳或作四役于参州
於長篠西北之間滝川橋場自殺従者齏遺骨少帰州臺原墓石采地或云武
河之白須村於自元寺以佛古又祭法号如前面矣聞自元寺之神儀弊壊新

之贈寺旦欲迎其壊於家而仰鎮護也

自元寺馬場三代

一、信房法名自元乾叟自元居士

  天正三年乙亥年五月二十一日 於三州長篠討死生年六十三歳   
  家臣原四郎承遺言 遺物遺骨等来於白須村自元寺法事相勤御墓名塔立来
一、馬場二代民部少輔信忠
  法名信翁乾忠居士 信房嫡子 信忠或ハ信春と云
  天正拾年三月信州深志之城討死 自元寺過去牒ニ記墓所有之
一、馬場三代民部少輔信義
是ハ信忠の嫡子此の人始めて家康公に仕へ法名等相見不申右之通相違無御座候以上

   慶応四年戊辰七月 巨摩郡片颪清泰寺末

【筆註】   

 三代馬場民部信義は『寛政重修諸家譜』によれば馬場美濃守の子供で長男が二代信忠で次男が信義(民部勘五郎)で「東照宮(家康)に召されて御麾下に列し、甲斐国白淵(洲)、教来石、台原等のうちにをいて旧地をたまひ、天正十七年采地を加へられ、御勘気をかうぶる」とある。又『寛政重修諸家譜』の馬場信久の項に、「信保(武田信虎に仕へ、甲斐国武川谷大賀原台ケ原根小家の城に住す」

-長男馬場美濃守信房-次男善五兵衛信頼、(兄信房の家嫡となる)-その子供が信久-その子供が信成で根小家に住し、武川の諸氏と共に徳川家康に仕え本領の地を給う(右衛門尉・民部)とあり、信義と信久は同一人物の可能性も有る。「根小屋」の地は現在も白州台ケ原の尾白川の対岸高台にあり、縄文・中性の遺跡も発屈されている。馬場一族として後世包含されているが、馬場美濃守と馬場信保の家系の繋がりは不詳。 

自元寺に現存する古文書(寺領)

一、三十七間  廿二間  屋敷弐反八畝拾壱歩 自元寺

是は自元寺屋敷の儀千六百八拾五坪御免坪にて四奉行衆御黒印取揃先年は白須村の内坊田と申所に寺御座候所先御給人馬場民部殿御知行所の時分六十九年以前辰年民部殿御指図を以高外芝間の処を寺地に仕立て御黒印の屋敷共に御年貢不納地に而御座候間前々の通御除地に被仰付下度候

一、廿間  八間  下田五畝拾歩 同寺領

是は自元寺屋敷黒印地林の内十五年以前戊年開発仕御年 貢不納地に而御座候間前々の通り御除地に被仰付下度候

一、廿壱間  拾五間下田壱反拾五歩 同寺領右同所

一、五拾間  三拾間同寺領

是は白須村先御給人馬場民部殿御知行の節七拾年以前、民部殿より白須村御高の内中田弐畝拾八歩下畑弐畝弐歩田畑合四反八畝八歩の所、御年貢なしに自元寺に被下置申候、民部殿御替り八代越中守殿御知行所の時分も前々の通り御年貢なしに被下置候然所に御蔵入に罷成、平岡七兵衛殿御代官所の節右四反八畝八歩の田畑御高内の由にて御年貢被仰付候に付、自元寺退転ニおよひ申躰に御座候故村中相談を以つて、白須村高外向川原にて新田開発仕自元寺へ付申度由七兵衛殿に御訴訟仕候処、願の通り仕候様にと被仰付、右川原間三拾九年以前戊年開発仕自元寺へ付置申候、其以後平岡勘三郎殿御代官の節超間御改の時右のわけ申候間前々の通り御除地に被仰付下度候
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