素堂と芭蕉

**素堂と芭蕉**
 松尾芭蕉は古体の俳諧を革新し、芸術文芸にまで引き上げたとして、後世「俳聖」として崇められた。連歌より派生した俳諧が、松永貞徳により体系化され、北村季吟・西山宗因が堅苦しいマンネリ化した遊戯的俳諧を、独自の「さび.・わび・しおり・ほそみ・かろみ」などを極致とする俳風を開き、芸術的俳諧に高めた事による。
 芭蕉も最初からこの域に達していたのではない、初めは貞門俳諧の手解きを受け、同じ門葉の季吟に師事し、後に宗因の談林調に投じ、そして素堂の後援を受けて、独自の俳風に至ったのである。
 素堂と芭蕉の結び付は一般には唐突である、しかし、寛文年の末頃の素堂と季吟の接触にあると推察される。勿論、春陽軒加友や内藤風虎の仲介の有ってのことであろう。延宝二年に素堂が信章として季吟に会った時には、素堂は一通りの俳諧者として過ごしていた。この時期は風虎と季吟の間で書状の遣り取りが頻繁であり、宗因の江戸招致も宗因の都合で中々進まずにいたのである。風虎のサロン入りをしていた素堂は、信章として仕えていた主家(林家?)の所用上洛するおり、風虎の依頼で季吟に会い、次いで難波の宗因に会ったのである。<季吟廿会集・信章難波津興行(鉢敲序)
季吟は宗房(芭蕉)に奥書「埋木」を与えたものの腰の定まらない宗房の、江戸での引き立て方を信章に依頼したのであろう。宗房は信章(素堂)の友人である京都の儒医・桐山正哲(知幾)に依頼して「桃青」号を付けて貰い、江戸に向かったらしい。しかし、江戸に向かう前に素堂に誘われて大阪に行ったとも考えられる。(素堂の名は見えないが芭蕉語録に芝居見物の話がある)此処で宗因化紹介されたのか、ただ見ただけなのかは判らないが、この後蓑笠庵梨一の「芭蕉伝」にあるように、季吟の門人ト尺(孤吟)に誘われ江戸に向かったのである。
素堂も宗因に会って風虎の依頼を伝えたものらしく、翌年初夏に宗因は江戸に到り、「宗因歓迎百韻興行」には、宗房改め桃青(桃青号の初め)は素堂こと信章と一座し、これと共に江戸風虎サロンにも紹介されたと考えられる、以後素堂は致仕するまで、江戸に在る時はいっしょして俳諧に一座していた。
 素堂の退隠後は、芭蕉はしばしば素堂のもとを訪れ、いろいろと学んでいたようで、門弟達と漢詩等の勉強会を開き、死ぬ元禄七年まで書物を借り出している。



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