第2位【ガイウス・ユリウス・カエサル】135.ムンダの戦い

 紀元前72年に、セルトリウスの叛乱を鎮圧したのは、他ならぬ、ポンペイウスである。

 その後、ヒスパニアは、ポンペイウスのクリエンテスとなった。

 ローマ内戦の初期には、ポンペイウス派に属したが、カエサルによって、制圧されている。

 ポンペイウスの二人の息子は、父のクリエンテスであったため、ヒスパニアに逃れた。

 原住民達が、彼等を受け入れたのは、単に、ポンペイウスを支持していたためではなく、ローマに対し、叛乱を起こすために、擁立する人物が必要だったためである。

 カエサルは、二人の軍団長、クィントゥス・ファビウス・マクシムスとクィントゥス・ペディウスをヒスパニアに派遣して、叛乱が、大規模になる前に、鎮圧しようとしたが、叛乱軍は、ヒスパニア全土に勢力を拡大し、その軍勢は、8万に達した。

 ファビウスとペディウスは、叛乱軍の勢力拡大に対し、無力のまま、終始した。

 二人は、カエサルの指揮下で、軍団長として、兵を率いるには、十分な能力があったが、カエサルの不在の状況、即ち、総司令官としての能力は、持ち合わせていなかったのである。

 カエサルの最大の弱点は、ファビウスとペディウスの例に見られるように、軍団長は、十分に務められるが、総司令官を任せられる、部下に恵まれなかったことである。

 即ち、ローマ世界を征服した、栄光のカエサル軍は、カエサルの不在の戦場においては、勝利を手にできなかったのである。それは、後世のナポレオンと同様である。

 唯一の例外は、ガリア戦役中の副将、ラビエヌスであるが、彼は、局地戦を任せられる、軍事的才能を有していたが、果たして、アレシア、ファルサルス、タプソスの戦いの様な、大規模な会戦の総司令官が、務まるか否かは疑問である。

 そのラビエヌスは、現在は、叛乱軍の指揮官の一人であった。

 カエサルは、自身の出馬を決断する。

 カエサルは、元ひばり軍団の第五軍団、ファルサルスの後、ポンペイウスの追撃に従えた、第六軍団、そして、最精鋭の第十軍団と共にヒスパニアに赴いた。

 上記の三軍団の他に、マウリタニア王国の騎兵と、ヒスパニアの現地兵が参戦したため、カエサル軍の総勢は、4万8千になった。

 小ポンペイウスは、ラビエヌスの助言を受けて、会戦を避けようとした。

 しかし、カエサルが、ヒスパニアの都市を陥落させると、叛乱軍の士気は落ち、原住民の脱走が相次いだため、会戦を決意せざるを得なくなった。

 両軍の決戦は、ムンダの平原で行われた。

 旧ポンペイウス派の兵の多くは、過去に一度、カエサルに降伏していたため、再度、降伏すれば、許されないと考え、死力を尽くして、戦った。そのため、ムンダの戦いは、激戦になった。

 第十軍団と、マウリタニアの騎兵の活躍によって、カエサル軍は勝利する。

 カエサル側の戦死者が、1千人に対し、叛乱軍は、3万3千人の戦死者を出した。

 ラビエヌスは、この戦場において、遂に戦死した。

 ルビコンで、別々の道を選んでから、四年。

 カエサルは、死者となった、ガリア戦役の副将と再会し、埋葬を許した。

 グナエウス・ポンペイウス・ミノル=小ポンペイウスは、負傷し、逃亡中に殺害された。

 セクスティウス・ポンペイウスのみが、大西洋岸の山地へと逃れ、生き延びた。



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