素堂消息 水間沾徳と素堂

素堂消息 水間沾徳と素堂

**参考資料 『芭蕉と三人の友』 沾徳・素堂・安適伝参考 小高敏郎氏著 
**参考資料 『俳文学大辞典』
**参考資料 『一字幽蘭集』
 **『江戸市井人物事典』北村一夫氏著。

『芭蕉と三人の友』
元禄六年四月、初夏の訪れと共に、深川の芭蕉庵では、郭公の声がさかんに聞える。閑静な水辺の地で、待ちつ(づ)けたこの郭公を聞くのも逸興とばかり、杉風、曾良など門人たちがつれだって芭蕉庵の戸を敲き、師の吟懐を尋ねた。だが、芭蕉は、猶子桃印が、旅先のこの庵で他界して間もないこととて、郭公の声にも、蜀王望帝の流離のうちに歿したことが思い出され、一人桃印死去の悲しみを強めるから、ほととぎすの句は詠まないと断わった。しかし杉風、曾良が更にすすめたので、ふと思いついた
 
ほととぎす声や横ふ水の上
一声の江に横ふやほとゝぎす
 
の両句を示し、共に前赤壁賦の「水光接天白露横江」をふまえた同想の句だがと、その勝劣を問うた。
右は有名な荊口宛真蹟書簡(元禄六年 1693 四月二十九日附) の伝えるところで、今更云々する必要もないが、この頃の芭蕉と親しい門入との一情景、雅交の雰囲気を紙髣髴とさせて楽しいので敢て引いた。
さて、この書簡には次の一節が続いている。
 
ふたつの作いつれにやと推稿難定処、水沼氏沾徳と云もの吊来れるに、かれ物定の博
士となれと、両句評を乞。沾曰、横江の句、文二対〆考之時ハ句量尤いミじかるべけ
れば、江の字抜て水の上とくつろげたる句のにほひよろしき方ニおもひ付べきの条申
出候。兎角する内、山口素堂・原安適など詩寄のすきもの共入来りて、水上の究よろし
きニ定りて事やミぬ。
 
この気のおけない集まりのところに、水間沾徳が訪れて来て、がやがやとした論義の判者となり、さらに詩寄のすきもの素堂・安適がやって来たというのである。だが、この三人には、杉風や曾良などの門人とちがって、芭蕉も多少気のおける、友人のような口吻が感ぜられる。
本稿では、この三人をとりあげて、芭蕉との関係をも揣摩憶測してみたいと思う。

〔註〕揣摩憶測=自分だけの判断で物事の状態や他人の心中などを推量すること。

 
沾徳については、いままでかなり研究されているし、最近、白石悌三氏の労作「水間沾徳年譜」(連歌俳諧研究第十九号) によって、その伝記的研究の基礎資料も整った。しかし、従来の沾徳観はあまり芳ばしいものではない。出身は不明とされながらも、『俳家奇人談』にいう磨工説が、暗々裡に論者の意識に影響を与えているようである。
したがって、譬喩俳諧と称せられる、その知に偏し技巧にはしった作風も、素堂など知識人作者にありがちな衒学癖のためと解釈されず、ろくな学問もないくせに、都会人らしくわるく気取った結果と見做されているようである。

〔註〕 衒学=学識をひけらかし、傲慢な態度を見せるような人物のこと。
 
また、享保時代には、江戸俳壇の中心人物になったことや、大名の内藤風虎、露沾父子をはじめ、貴顕の家に出入し、その辱知をうけたことも、彼の文学的才能と教養、あるいは文壇的地位が然らしめたという点への配慮がなされず、専ら支考、蓼太のごとき、世俗的な手腕、顕門にへつらういやらしさを予想するようである。これには在色が江戸に来たおり、「鍔もあり間の宿などほととぎす」なる沾徳の発句の趣向を尋ね、その愚昧さにあきれ、「かくの事知らぬ者として、此道の宗匠をして、点料をかすめ、初心を誣して、物知り顔するは、よくも愚盲の至なり。言語に絶たり」(俳諧解脱抄、享保三年・1718成)などという、侮蔑の辞が影響してもいよう。しかし、古来より同業は相妬むものである。ことに俳壇では、貞門、談林以来、論戦の態をなさず口ぎたないだけの攻撃が多い。だから在色の罵言にも江戸の俳壇に君臨していた沾徳への嫉視反感が考えられる。『解脱抄』の悪口をそのまま受けとるのはいかがであろうか。
もちろん、私は沾徳の文学的才能をさして高く評価するものではない。また、沾徳の世渡り上手を否定するものでもない。だが、従来の沾徳観は、多少偏頗であって、全面的にはやはり同感できないものがある。すなわち、若し、沾徳が磨工あがりの無学な人間で、世渡り上手の俗物だったなら、前引の芭蕉書簡に見られたように、何故、その批評の座の「物定の博士」にされたのか。年齢からいっても、当時の沾徳はいまだ三十三才(白石氏「水間沾徳年譜」。従来の説によれば三十二才、芭蕉・曾良・杉風たちより二十才ほども年少なのである。
これは沾徳が門人でなく、友人、客分としての配慮があったのだろう程度の憶測では解釈がつかない。沾徳は、芭蕉はじめ他の門人から敬重されるような学問があったのではないか。  


『一字幽蘭集』水間沾徳編。内藤露沾序。


『俳林一字幽蘭集ノ説』素堂序あり。


元禄5年(1692)素堂、51才


 


「俳林一字幽蘭集ノ説」

沾徳子甞好俳優之句遂業之來撰一字幽蘭集儒余于説幽蘭也應取諸難騒而除艾長蘭之意 我聞楚客之三十 恂不為少焉雖餘芳於千歳未能無遺梅之怨矣斯集也 起筆於性之一字而掲情心忠孝仁禮義智始終本末等總百字之題以て花木芳草鳴禽吟蟲四序當幽賞風物伴載而不遺焉何有怨乎叉原斯集之所従来前岩城の城主風虎公所撰之夜錦 櫻川 信太浮島此三部集。愁不行於世也 仍抜萃自彼三部集若干句副之句之古風時世之中其花可視而其實可食者畫拾之纂之其左引證倭歌漢文而為風雅媒是編者之微意也可以愛焉従是夜錦不夜錦浮嶋定所櫻川猶逢春矣雖然人心如面而不一或是自非他謾為説誰知其眞非眞是各不出是非之間耳若世人多費新古之辯是何意耶想夫天地之道變以為常俳之風體亦是然寒附熱離時之勢自不期然而然者也強不可論焉沾徳水子知斯趣之人也
 為是 素堂書 佐々木文山冩    


読み下し
沾徳水子は、甞って俳優の句を好みて遂にこれを業とす。ちかごろ一字幽蘭集を撰びて予に説を求む。それ幽蘭なるは、まさにこれを離騒に取りて艾を除き蘭長ずるの意なるべし。我聞く楚客の三十もことに少しとなさず芳せを千歳に余すといえども、未だ梅をわするゝの怨み無きことあたはず。その集や筆を性の一字に起こして、情心・忠孝・仁禮・儀智・始終・本来総て百字の題を揚げ、以て花木・芳草・鳴禽・吟中四序、まさに幽賞すべき風物を伴ひ載せてこれおわすれず。何ぞ怨有らんや。又その集のよりて来る所をたずぬるに、さきの岩城の城主風虎公撰したまふ所の夜の錦・櫻川・信太之浮嶋この三部の集、世に行なはざれしを愁いてなり。すなはち萃して彼の三部の集より若干の句を抜きてこれに副るに、古風、いまよう姿の中、その花を視るべくして其のミ実食すべきはこれを拾い尽くして、これを纂め、以てその左に倭歌漢文を引證して風雅の媒と為す。是を編める者の微意なり。以てめでつべし。是により夜の錦、夜の錦ならず浮嶋も所を定め、櫻川猶春に逢がごとし。しかれども人の心面の如くにて一ならず。或は自らを是とし他を非なりと謾る説を為す。誰かその真非真是を知らん。各是非の間を出でざるのみ。しかのみならず世人の多く新古の辨を費やす。これは何の意ぞや。想ふに、それ天地の道変を以て常とし、俳の風体もまたこれに然り。寒に附き熱にさかる時の勢ひ、自ら然ることを期せずしてる者なり、強いて論ずべからず。沾徳水子その趣きを知る人なり。
    これが為に素堂書す佐々木文山寫す


『一字幽蘭集』発句四入集。沾徳編。
   河骨やつゐに開かぬ花ざかり       素堂
   一葉浮て母につけぬるはちす哉      素堂
   魚避て鼬いさむる落葉哉         素堂
   茶の花や利休が目にはよしの山      素堂
   
  沾徳の消息

 『沾徳随筆』に、素堂の逝去に対して、
 山素堂子、去る仲秋みまかりぬ。年行指折で驚く事あり、予を入徳門に手を引き染めて四十年、机上の硯たへて三十年、今に持来りて窓に置く。云々。
 《注解》 『沾徳随筆』
俳諧随筆。享保三年(1718)稿。素堂追悼句文掲載。
寛文二年(1662)生、~享保十一年歿。年六十五才。
 はじめ門田沾葉、のち水間沾徳。江戸の人ではじめ調和門調也に師事し、調也に随伴して内藤風虎の江戸藩邸に出入りし、同藩邸の常連である素堂の手引きで林家に入門、また山本春正、清水宗川に歌学を学び、同門の原安適と親交を結んだ。貞享二年(1685)頃立机、素堂を介して蕉門に親しむ。


合歓堂沾徳  『江戸市井人物事典』北村一夫氏著。
   帯程に川も流れて汐干かな
   折りてのちもらう声あり垣の梅

などの句でしられる合歓堂沾徳は、京橋五郎兵衛町(現在の八重州口六丁の
内)に住む通称水間治郎左衛門という刀剣の研師である。飛鳥井雅章が和歌
のことで問題を起こし、岩城平に左遷された時、沾徳は俳 諧の師でもあり
城主である内藤露沾に選ばれて御伽衆として雅章に仕えた。雅章は配所に三
年ほどいて京都に帰ったが、その時沾徳に「汝必ず和歌に携わるべからず。
只俳諧のみ修業すべし」と言い残した。(『俳諧奇人談』)
沾徳は気骨のある人で播州顔赤穂の大高子葉(源吾)、富森春帆(助右衛
門) 神崎竹平(与五郎)、茅野涓水(三平)などの門人がいる。赤穂浪士
の遺文中に俳句が多いのは沾徳の力に大いに預かっている。




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