◇延宝 三年(1675)☆素堂34才 芭蕉、32才

◇延宝 三年(1675)☆素堂34才 芭蕉、32才
素堂の動向
宗因歓迎百韻(談林百韻)西山宗因編 三年京都刊
 鎌倉内藤風虎邸で興行(梅翁俳諧集―早大本)
領境松に残して一時雨    信章(素堂)
  一生はたゞ萍におなじ    信章 (萍―うきくさ)
芭蕉の動向
▼5月、東下申の西山宗因歓迎の百韻に桃青号で一座。
連衆、宗因・幽山・桃青・信章・木也・吟市・少才・似春。
▼広岡宗信編『千宜理記』に「伊州上野宗房」として発句六句。
▼内藤露沽判『五十番句合』に発句二句入集(『芭蕉翁句解参』)。
  芭蕉発句
人毎の口にある也したもみぢ
針立や肩に槌打つから衣
▼この年、夏、帰郷、猶子桃印を連れて江戸に下る。北村季吟編『続連珠』に発句六句、付句四句。巻末句引の「武蔵国」の部に「松尾氏、本住伊賀、号宗房桃青」と見える。
【註】この時代俳諧世界は大きな展開に際会していた。微温的な貞門俳諧の退屈なマンネリズムは、徳川の安定期の時代背景の中で育った新しい作家達の関心を繋ぎとめることはできなくなった。もっと無遠慮な、荒唐無稽な非合理の中に放笑を求めるような新風がおこり、それが非常な勢で俳壇を風扉した。
新風は文壇の長老、大阪天満宮の連歌宗匠西山宗因を担ぎ上げて大阪で起こった。芭蕉は『貝おほひ』を奉納した次の年、寛文十三年には、井原西鶴が『生玉万句』を興行刊行して、新風の峰火をあげ、その異風の故に「阿彌陀流」とよばれた。
翌延宝二年には宗因の『蚊柱百韻(かばしらのひゃっく)』をめぐって旧態派からの攻撃があり、宗因流の方からは、翌三年に論客岡西惟中が登場してこれを反撃、さらに惟中の『俳諧蒙求(はいかいもうぎゅう)』が出て、新風はあらたな論的根拠を得ることになる。すなわち、俳諧の本質を寓言にありとし、「かいてまはるほどの偽をいひつづけるのが俳諧」だといい、「無心所着」の非合理、無意味の中に俳諧があるという奔放な詩論が生れる。
そしてこの年宗因の東下によって江戸俳壇にも宗因流が導入されることになるのであるが、この五月、深川大徳院で興行された宗囚を迎えての百韻には、「宗房」を「桃青」と改めた芭蕉も、幽山・信章(素堂)似春などとともに、一座している。
芭蕉年譜 櫻井武次郎氏著
○この春、 時節嘸伊賀の山ごえ華の雪  杉風
 身は宴元に霞む武蔵野   桃青
 以下の両吟歌仙成るか。翌年帰郷の際の餞別とする説もある。
〇五月、江戸大徳院礎画事典行の宗因歓迎百韻に一座。
天理図書館蔵『談林俳諧』(写本)に「延宝三卯五月 東武にて」と端作りしてみえるもので、連衆は、宗因・磁画・幽山・桃青・信章(素堂)・木也・吟市・少才・似春・又吟。
これが文献にみえる桃育号の初めである(顕原退蔵「宗因一座の芭蕉連句」『頴原退蔵著作集』二)。
〔周辺の動き〕
▽季吟ら『花千句』  ○宗信『千宜理木』 ▽高政『誹諧絵合』
▽『信徳十百韻』   ▽松意『談林十百韻』▽『大坂独吟集』
▽重徳『新続独吟集』 ▽西鶴『独吟一日千句』 
▽難波津散人『糸屑』 ▽胡今『到来集』
○惟中、四月京坂に上り任口・宗因に会い、任ロの跋を得て『俳諧蒙求』を刊。貞門俳諧および「軽口俳諧」を批判。
『しぶ団返答』(九月序)では『蚊柱百句』を批判した去法師の『渋田』に反駁。    
○宗因、江戸から帰坂の途、京に立ち寄り、六月二十九日、重頼を訪ねる。
○似船、六月二九日、万句興行。
○北峯正甫、この年没か。
○露沾判『五十番発句合』(原本不明。『芭蕉翁句解参考』による)に発句二以上入集。
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