新島襄の京都旧邸紹介3 最終回 2階と附属屋

昨日は1階の紹介でしたが、今日は2階からです。

 

2階の居間です。(パンフレットからの引用です)

 

2階の間取りです。居間と3つの寝室があります。(パンフレットからの引用です)

建設当初は4部屋すべてがフローロングの洋室

でしたが、八重さんが改造したのか1部屋だけは、

6畳の和室になっています。

 

続いて、附属屋ですが、新島襄の両親の隠居所として建てられました。

江戸藩邸にあった住居に準じての和風建築です。

 

附属屋の外観です。

 

附属屋とその右に和風の門があります。

 

門の出入口です。入ると右側に附属屋があります。

 

 

出入口とあるのが上の写真の門です。(上が北)

 

附属屋の間取りです。Gateとあるのが、上の写真の門です。(上が北)

江戸藩邸の屋敷もこのような感じだったのでしょう。

明治維新後各藩の江戸藩邸は、新政府の所有となりました

ので、こちらの京都に和風の住居を建てたのでしょう。

ただ、床の間のある部屋が無いのは寂しいですね。

 

東側端の方から撮影しました。写真の左端が門です。

門横の西翼6畳間は管理室になっています。

上には上がれませんでしたので、外からの撮影です。

中央七畳間です。左奥に西脇六畳間が見えています。

 

東脇七畳間です。

 

展示パネルよりの引用です。  右の写真は西脇六畳間の出窓です。

 

東の出口です。本宅に繋がっています。

 

明治23年(1890年)1月に、新島襄は同志社を大学昇格に奔走中に、

心臓疾患を悪化させて、群馬県の前橋で倒れ、神奈川県大磯の旅館・

百足屋で静養しますが、病気のため急逝します。

新島襄の死から間もない明治23年(1890年)4月に、八重は日本赤

十字社の正社員となり、明治27年(1894年)の日清戦争では、広島

の陸軍予備病院で4か月間篤志看護婦として従軍しました。40人の

看護婦の取締役として、怪我人の看護だけでなく、看護婦の地位の向

上にも努めました。

八重は明治40年(1907年)11月に、新島旧邸を学校法人同志社に

寄付しましたが、そのままここに住み続けて、 昭和7年(1932年)6月

に亡くなりました。2人の間には子供がいませんでした。新島家は新島

家の縁者が継いだそうです。

 

明日からは観心寺の紅葉ライトアップの紹介です。

 

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