【清和源氏】編『足利一族』章「今川氏」節 11.今川氏親

 義忠の祖父、範政は、駿府郊外の小鹿を所領としていたため、末子の範頼は、小鹿範頼を称した。

 その範頼と、堀越公方の足利政知の執事、上杉政憲の娘の間に生まれたのが、範満である。

 今川氏の譜代家臣の多くが、幼少の龍王丸ではなく、範満の家督継承を支持。北川殿と龍王丸は、小川郷の長谷川政宣の館に逃れた。
 
 龍王丸派と範満派は、数度の合戦に及んで、今川氏は、内乱状態に陥った。

 堀越公方の足利政知は、範満の母方の祖父、上杉政憲に兵を率いさせて、駿河国に派遣。当時の関東管領、上杉顕定も、扇谷上杉氏の家宰、太田道灌を派遣し、範満を支持させた。
 
 一方、京の幕府は、範満が今川宗家を継承することで、駿河国に関東管領の影響力が、及ぶことを警戒し、両派を仲介し、今川氏の内紛を鎮めるため、北川殿の弟で、龍王丸の叔父である、伊勢盛時(後世、北条早雲と呼ばれる)を派遣する。

 盛時は、範満を龍王丸の後見人とし、龍王丸が、成人するまでの間、範満が、今川宗家の家督を代行する、ということで、両派を納得させ、和議を成立させた。

 その結果、政憲と道灌は撤兵し、範満は駿河館に入り、龍王丸は、長谷川政宣の館に留まった。

 盛時は、将来の龍王丸の家督継承を確認するため、前将軍の足利義政の御内書を得ている。

 しかし、範満は、龍王丸が十五歳になり、成人しても、家督を返そうとせず、龍王丸を圧迫した。

 そのため、1487年(文明十九年)、北川殿と龍王丸は、京において、九代将軍の足利義尚に仕えていた、伊勢盛時に、再び、助けを求める。

 盛時は、駿河国へ下向すると、石脇城を拠点に、同志を集め、駿河館を急襲し、範満を殺害した。

 この容赦のない、果断こそが、後世、北条早雲と呼ばれる、伊勢盛時の乱世の奸雄としての片鱗を思わせる。

 龍王丸は、駿河館に入り、元服して、今川氏親を称した。

 氏親は、自身の今川宗家、家督継承の最大の功労者である、伊勢盛時に富士下方十二郡と興国寺城を与えている。盛時は、元々、将軍に奏聞を取り次ぐ役職である、室町幕府の申次衆であったため、氏親の家督相続後は、京に戻ったと考えられる。

 伊勢盛時が、いつ頃から、京を離れて、今川氏親の家臣になったのかは、不明であるが、1493年(明応二年)、盛時は、堀越公方の足利茶々丸を攻め、堀越公方家を滅ぼしている。

 この時、氏親も今川の軍勢を出陣させ、盛時に協力した。

 堀越公方の足利政知は、八代将軍の義政の異母兄であった。

 次男の清晃は、出家して、天龍寺香厳院を継承した。

 1489年(長享三年)、九代将軍の足利義尚が死去し、翌年には、前将軍の義政が死去すると、義政の同母弟、義視の息子の義材が、十代将軍の座に就いた。

 一方、足利政知の嫡男、茶々丸は、素行が悪く、堀越公方の後継者としては、不適格で、政知は、茶々丸を土牢に軟禁した。

 堀越公方の執事の上杉政憲は、政知に茶々丸の廃嫡を薦めて、諫めたが、逆に政知によって、自害させられている。

 1491年(延徳三年)、政知が死去すると、茶々丸は、牢番を殺して、脱獄し、継母である、円満院と、堀越公方に就任予定の異母弟の閏童子を殺害し、事実上、堀越公方になった。

 清晃は、円満院の息子であったため、茶々丸は、彼にとって、母と弟の仇となった。



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