【清和源氏】編『足利一族』章「今川氏」節 10.小鹿範満

 今川義忠は、上洛中に、備中伊勢氏の盛貞の娘、北川殿と結婚したと思われる。

 北川殿の弟は、日本史上に名高い、伊勢盛時、後世、北条早雲と呼ばれる、後北条氏の祖である。

 当時、伊勢氏の宗家の貞親は、室町幕府の政所執事で、分家の盛貞は、今川家との申次衆を務めていた。

 伝承とは異なり、北条早雲は、名門出身だったのである。

 翌年、東軍の総大将である、細川勝元からの要請で、東海道の斯波義廉の守護国である、尾張国・遠江国を錯乱すべく、義忠は、北川殿と共に駿河国に戻ると、遠江国への侵攻を開始した。

 当時の斯波氏は、義廉と松王丸が、家督相続争いを繰り広げていた。

 そのため、松王丸は、義廉と対抗するため、東軍に属した。

 東軍の総大将の細川勝元は、松王丸を斯波氏の家督継承者と認め、越前国・尾張国・遠江国の守護職を与えた。

 即ち、今川義忠の欲する、遠江国の守護が、東軍にも存在したのである。

 1473年(文明五年)、西軍に属する、美濃国の斎藤妙椿が、東軍の三河国守護、細川成之を攻撃すると、義忠は、将軍の足利義政の命を受けて、救援のために三河国に出陣する。

 しかし、兵糧用として、将軍から預けられた所領を巡って、既に元服を済ませた、尾張国守護の松王丸=斯波義良と対立する。

 更に三河国の吉良義真の被官であり、遠江国の国人、巨海氏、狩野氏とも対立して、滅ぼしてしまった。

 そのため、義忠は、同じ東軍の斯波義良、細川成之とも敵対することになった。

 更に、1475年(文明七年)、西軍の斯波義廉の重臣、甲斐敏光が、東軍に寝返ると、東軍は、敏光を遠江国守護代に任じている。

 義忠は、東軍に属しながら、今川氏の代々の宿願である、遠江国守護職の奪還と、所領を巡り、東軍の諸将と敵対したのである。

 1476年(文明八年)、今川氏の被官で、遠江国の国人、横地四郎兵衛と勝間田修理亮が、斯波義良に通じて、義忠から離反した。

 横地と勝間田は、見付城を修復し、義忠に抵抗の構えを見せた。

 義忠は、両人を討伐すべく、500騎を率いて出陣する。

 義忠は、勝間田城と横地氏の拠点の金寿城を囲み、両人を討ったものの、その帰途の夜、遠江国の小笠郡塩買坂で、横地氏と勝間田氏の残党による、一揆に不意を襲われた。

 馬上、指揮する義忠だったが、流れ矢に当たって、討ち死した。享年四十一歳。

 義忠には、伊勢盛貞の娘、北川殿との間に、嫡子の龍王丸が生まれていた。

 義忠の突然の死去の際、龍王丸は、六歳。家臣の中には、遠江国の混乱の最中に、幼少の龍王丸が、家督を継承することを不安視する者もいた。

 更に、義忠が滅ぼした、横地と勝間田は、今川氏を裏切ったとはいえ、幕府が、正式に任命した、遠江国の守護、斯波義良に寝返ったのであり、両者を討ったことは、遠江国の守護のみならず、それを任命した、幕府に叛逆したことになる。

 義忠の幕府への叛逆とも考えられる行為は、北川殿と嫡子の龍王丸までもが、叛逆者と捉えられる可能性は、十分にあった。

 そのため、今川氏内部では、小鹿範満が、今川宗家の家督継承権を主張し、それを支持する家臣も多かった。

 範満は、義忠の父、範忠の弟で、範忠と家督を争った、小鹿範頼=千代秋丸の息子であった。



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