甲斐国志 素堂の項は こうして伝播していく 芭蕉庵桃青伝

山口素堂
芭蕉庵桃青伝 内田魯庵著

随所に間違いが見える。

山口素堂が、東叡山下より葛飾の阿武に居を移せしも亦 天和年中 なり。 素堂 は 季吟 門にして 芭蕉 が親友なり。名は 信章 、字は 子晋 、通稱 官兵衞 といふ。甲斐巨摩郡教來石村字山口の人なり。代々山口に住するに依て山口氏と稱す。 山口市右衞門 の長男にして 寛永十九年 五月五日に生る。幼名を 重五郎 と云ひ、長じて 父 が家を繼ぎ家名 市右衞門 と改む。其後甲府魚町に移り、酒折の宮に仕へ頗る富めるをもて郷人尊稱して山口殿と呼べり。幼時より四方に志ありて、屡々江戸に遊び 林春齋 の門に入て經學を受け、のち京都に遊歴して書を持明院家に、和歌をを清水谷家に學び、連歌は 北村季吟 を師として 宗房即ち桃青 、 信徳 及び 宗因 を友とし俳諧に遊び、 來雪 又 信章齋 と號し、茶道を 今日庵宗丹 の門に學んで終に嗣號して 今日庵三世 となる。斯る異材多能の士なれば、早くより家を弟に讓りて 市右衞門 と稱せしめ、自ら 官兵衞 に改めて仕を辭し、江戸に來りて東叡山下に住し、 素堂 と號して儒學を諸藩に講じ以て業となし、傍ら 人見竹洞 、 松尾桃青 等諸同人と往來して詩歌聯俳を應酬唱和し、點茶香道を樂み、琵琶を彈じ琴を調べ、又寶生流の謠曲を能くしければ、 素仙堂 の名は風流を擅にしたりき。(以上『 葛飾正統系圖 』に據る。) 桃青 はもと同門の友たれば、東下以來『 江戸三百韻 』を初めとして、文字の交際尋常ならざりしが、殊に 素堂 が葛飾阿武に移居せし後は、偶々六間堀の假寓と近接したれば、小名木川を上下して互に往來し愈々親しく語らひける。 素堂 の號は此頃より名乘りしものにて、庭前に一泓(*淵)の池を穿ちて白蓮を植ゑ、自ら 蓮池の翁 と號し、晋の 惠遠 が蓮社(*慧遠・謝霊運等の白蓮社)に擬して同人を呼ぶに社中を以てし、「浮葉卷葉この蓮風情過ぎたらん」の句を作りて隱然一方の俳宗たり。一説に 芭蕉 は儒學を 素堂 に學びたりと云へど、其眞否は精しく知るを得ず。されど當時の俳人を案ずるに、 季吟 の古典學者たるを除くの外は連歌に精しき者の隨一流の識者として、 素堂 程の學識ある者は殆ど其比を見ず。 芭蕉 は稀世の天才にして且つ 季吟 が國典に於ける衣鉢を繼ぎたれ共、 素堂 如き才藝博通の士に對しては勢ひ席を讓らざるを得ざるべし。且つ縱令師事せざるも文詩の友を結んで益を得たるは、恐らく失當の推測にあらざるべし。 芭蕉 の遺文を案ずるに、 其角 丈と云ひ 杉風 樣と呼ぶ中に、獨り 素堂 先生と尊稱するを見るも亦、尋常同輩視せざりしを知るに足る。されば枯枝の吟に於ける口傳茶話の如き、蓑蟲の贈答の如き、『 三日月日記 』に漢和の格を定めたる如き、若くは其日庵に傳ふる 芭蕉 ・ 素堂 二翁、志を同うし力を協して、所謂葛飾正風を創開せしといふ説の如き、或は『 續猿蓑 』の「川上とこの川しもや月の友」を以て 素堂 を寄懷せるものとなす如き、皆 素堂 と 芭蕉 との淺からぬ關係を證するものにして、 芭蕉 が俳想の發展は蓋し 素堂 の力に得たるもの多かりしなるべし。 素堂 傳に 芭蕉 と隣壁すとあれども、 素堂 は阿武に住し 芭蕉 は六間堀に寓したれば、隣家といふも恐らくは數町を距てしなるべし。當時深川は猶葛飾と稱し、人家疎らなる僻地なれば、茫々たる草原に數町を距てゝ二草舍の相列びしものならん乎。
因に云ふ。 元祿八年 、 素堂 五十四歳の時歸郷して父母の墓を拜せし序、 前年 眷顧を受けたる頭吏 櫻井孫兵衞政能 を訪ひたりしに 政能 大に喜びて云へらく、笛吹川の瀬年々高く砂石河尻に堆積して濁水常に汎濫し、沿岸の十ヶ村水患を蒙むる事甚しく殊に蓬澤及び西高橋の二村は地卑くして一面の湖沼と變じ釜を釣りて炊き床を重ねて座するの惨状を極め禾穀腐敗して收穫十分の二三に及ばざるに到れば百姓次第に沒落して板垣村善光寺の山下に移住するもの千石に達し、殘れる者も其辛楚に堪えざらんとす。數里の肥田は流沙と變じ餓■將に野に充ちんとする酸鼻の状は苦痛に堪えざれども獨力經過の難きを歎ずる折から、 足下 の來れるのは幸ひなり。願くは姑く風月の境を離れて 我 に一臂の力を假して民人の爲に此患を除くの畫策をなさゞらんやと。 素堂 慨然として答へて云ふ、善を見て進むは本より人の道なり。況してや父母の國の患を聞いて起たざるは不義の業にして我が不才も之を耻づ。友人 桃青 も曾て小石川水道工事の功を修めたれば一旦世事を棄てたる 我 も 君 の知遇を受けて爭でか奮勵せざらんやと。終に承諾しければ、 政能 大に喜び公廳の許を得んとて江戸に出立しける。出づるに臨みて涕泣して沿道に送れる十村の民に向ひ、今度の素願萬一被許相成らざる時は今日限り再び汝等の顔を見ざるべし。今よりは萬端 官兵衞 が指導を仰ぎて必ず其命に背違する勿れと云ひて訣別しぬ。禿顱の 素堂 再び 山口官兵衞 と名乘りて腰に兩刀を帶び日夜拮据勉勵して治水の設計を盡策しぬ。斯くて其 翌年 孫兵衞政能 終に公許を得て歸郷しければ 素堂 、 孫兵衞 は協議して大設計を立て、夙夜營々として事に從ひ、西高橋村より南方笛吹川の堤後に沿て増坪、上村、西油川、落合、小曲、西下條に到るまで、新に溝渠を通じ土堤を築く事二千間餘、疏水の功全く落成せしかば、惡水忽ち通じて再び汎濫せず、民人患を免がれて一と度他に移住せしものも郷土に從歸して祖先の墓を祀る幸福を得るに到りしかば、民人崇敬して猶生ける時より祠を蓬澤村の南庄塚に建て、 政能 を櫻井明神と稱し 素堂 を山口靈神と號して年々の祭祀久しく絶えざりしといふ。 素堂 は其後再び江戸に來りて俳諧に遊び、亡友 芭蕉 の爲に定林院の域内に桃青堂を建立して 西行 及び 芭蕉 の像を安んじ、『 松の奧 』及び『 梅の奧 』の秘書に永く 其日庵 の俳風を殘し、 享保元年 八月十五日七十五の壽を以て終りぬ。 芭蕉 が水道遺事は廣く人口に膾炙すれども然も精しく其蹟を尋ぬれば漠として捕捉しがたし。 素堂 が笛吹川の工事は多く知られずして却て赫々たる功は今に顯著たり。既に有志の硅は永く其功績を後世に殘さんが爲、數年前 素堂 疏水紀功碑を建設したりと云ふ。 素堂 は決して尋常俳諧師にあらざるなり。(『 葛飾正統系圖 』及び 露伴子 の『 消夏漫筆 』五十四に據る。)
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