【清和源氏】編『足利一族』章「今川氏」節 02.駿河今川氏

 今川基氏には、五人の息子がいた。頼国・範満・頼周・大喜法忻・範国である。

 長男の頼国の代に、足利宗家の尊氏が、挙兵して、鎌倉幕府を滅ぼす。

 頼国は、大喜法忻を除く、四人の弟と、息子達を率いて、尊氏に従った。
 
 鎌倉幕府の滅亡後、建武の新政権は、後醍醐天皇の皇子、成良親王を頂点とし、尊氏の弟の直義を執権とする、鎌倉将軍府を設置した。

 この時、尊氏の嫡男で、幼少の千寿丸、後の室町幕府の二代将軍足利義詮も、鎌倉に置かれている。
 
 建武の新政権は、武家の支持を得られず、鎌倉幕府滅亡後も、北条の残党等が、各地で蜂起を繰り返していた。

 1335年(建武二年)、北条得宗家の北条高時の遺児、北条時行が、潜伏先の信濃国で、諏訪氏・滋野氏などに擁立され、鎌倉幕府の再興のために挙兵した。中先代の乱である。

 時行の挙兵に応じ、北陸では、北条一族の名越邦時も挙兵した。
 
 北条時行の軍勢は、信濃国衙を襲撃して、建武の新政権の任命した、公家の信濃国司を自害させると、武蔵国に侵入し、鎌倉に迫った。

 当初、京の新政権は、叛乱軍が、時行を擁立しているとは知らず、京へ向かうと思い、鎌倉将軍府への連絡が遅れた。
 
 北条時行の軍勢は、女影原で渋川義季・岩松経家の鎌倉将軍府の軍勢を、小手指原では、今川範満の軍勢に勝利した。今川頼国の次弟、範満は、小手指原の戦いで戦死してしまう。

 更に、武蔵府中において、小山秀朝の軍勢に勝利すると、鎌倉から迎撃のために出陣した、鎌倉将軍府の執権、足利直義の軍勢をも打ち破る。
 
 直義は、千寿丸と、成良親王を連れて、鎌倉を脱出した。北条時行は、鶴見の戦いで、佐竹義直を破ると、鎌倉に入って、占領することに成功した。

 更に、北条時行の軍勢は、逃走する、直義を駿河国手越河原で撃破したのである。
 
 京の足利尊氏は、後醍醐天皇に、北条時行の討伐の許可と、総追捕使及び、征夷大将軍の役職を要請するが、後醍醐天皇は、尊氏が、自立することを恐れて、要請を拒否した。

 尊氏が、勅状を得ないまま、出陣すると、天皇は、尊氏に征東将軍の称号を追認した。
 
 尊氏は、三河国矢作に拠点を構えていた、直義と合流すると、反撃に移る。

 今川頼国は、小夜中山合戦において、北条軍の名越邦時を討ち取り、功績を挙げた。

 しかし、六日後の相模川の合戦で、頼国と三弟の頼周は、戦死する。

 各地で激戦が繰り広げられ、時行は、鎌倉占領後、わずか、二十日余りで、逃亡し、中先代の乱は終焉を迎えた。

 今川氏は、僧籍の四男の大喜法忻と、尊氏の近習として従っていた、末弟の範国を除き、三人の兄弟が、中先代の乱において、戦死している。

 尊氏は、頼国・範満・頼周の功績に報いるため、頼国の長男、頼貞を丹後国・但馬国・因幡国の三カ国の守護に任じ、範国を駿河国・遠江国の守護に任じた。

 今川氏は、一時的に、五カ国の守護になったのである。
 
 足利尊氏と直義の兄弟の対立、観応の擾乱が発生すると、範国の長男の範氏は、尊氏派に属して、戦功を挙げ、駿河国の守護職を継承した。

 頼国の長男の頼貞は、早世したのか、もしくは、直義派に属したのか、歴史の表舞台から姿を消す。

 以降、範氏の子孫が今川氏の嫡流として、代々、駿河国の守護職を継承することになる。



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