【清和源氏】編『足利一族』章「吉良氏」節 04.吉良義信

 1467年(応仁元年)8月18日、東軍の総大将、細川勝元は、将軍に近侍する、奉公衆の中に西軍に味方する者がいるとして、将軍御所を囲み、勝元が、後土御門天皇にこのことを奏上すると、天皇は、大納言三条公春と吉良義信を使いとして、勝元に対し、西軍与同の者の姓名を記し、追放するよう命令する。

 調査の結果、23日に、十二名の名を書いた名簿が、将軍の義政に提出される。

 義政は、天皇と同様に三条公春と吉良義信の二人を使いにして、名簿に名の挙がった、十二名の者に対して、御所を退出するよう命令した。

 しかし、十二名は、憤りが収まらず、その場で合戦の支度を始めてしまう。

 同じ日に、山名宗全の兵が、内裏へ乱入し、天皇・上皇を拉致するという噂が流れたため、義信は、武者頭として、禁中警護に当ると、再度、三条と共に名簿の十二名に対し、天皇・将軍の命令として御所退出を促し、説得に成功すると、御所から脱出させている
 
 義信は、1487円(長享元年)には、九代将軍の足利義尚による、近江国の六角高頼攻めに従軍している。

 また、1491年(延徳三年)、十代将軍の足利義材による、再度の六角攻めにも従軍した。

 明応の政変で、義材が失脚、足利義澄が、新将軍となった後も、義信は、幕府に出仕を続けるが、1498年(明応七年)に病と称して出仕を止め、1501年(明応十年)に至るまでの三年の間、屋敷に引き篭っていた。
 
 1508年(永正五年)、前将軍の足利義材が入京すると、義信は、一条室町の自邸を将軍の仮御所として提供した。1511年(永正八年)、細川澄元の京都侵攻によって、将軍の義材は、丹波国に逃走し、義信は、義材に随行する。同日、将軍仮御所の吉良邸は焼き討ちされた。

 その後、船岡山合戦により澄元の兵は敗走、義信は義尹とともに帰洛する。

 義信の嫡子、義元は、父に先立ち、早世したため、1516年(永正十三年)、義信は、義元の嫡子の義堯に家督を譲った。将軍の足利義材は、細川高国と対立し、1521年(大永元年)和泉国の堺に出奔した。

 西条吉良氏は、祖父の義信の時代、足利義材に味方し続けたため、義堯は、京での立場を失い、三河国吉良荘園西条に戻り、領国経営に専念した。

 遠江国引馬荘は、南北朝時代から、吉良氏の領地であったが、義堯が、家督を継承した、その翌年には、駿河・遠江国の守護の今川氏親に、拠点である、引馬城を落とされ、代官の大河内貞綱、巨海道綱の兄弟は戦死し、吉良氏は、遠江国の所領を失った。

 義堯には、義郷・義安・義昭の三人の息子がいた。義堯の死後は、長男の義郷が、西条吉良氏の家督を継いだ。

 当時、東条吉良氏の吉良持弘は、徳川家康の祖父、松平清康の妹を妻に迎え、勢力の維持を図ったが、清康は、森山崩れで、暗殺されてしまう。

 三河国は、駿河・遠江国の今川、尾張国の織田の両勢力の狭間となったために、西条・東条の両吉良氏は、反目を止め、和睦した。

 そして、吉良持弘は、実施の吉次がいたにも関わらず、幼少のために、西条吉良氏の義堯の次男、義安を養嗣子に迎え、東条吉良氏の家督を継承させた。

 しかし、西条吉良氏の当主である、兄の義郷が、嗣子のないままに、早世したため、義安は、西条吉良氏に戻って、家督を継承した。


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