安土城の紹介5 二の丸まで

今日の朝、また北朝鮮のミサイルが日本を

飛び越えていますね。被害が無くて良かったですね。

昔、ローマ帝国がカルタゴに勝利して、カルタゴの町

の存続を許しますが、戦争放棄させられます。今の

日本とよく似ています。そんな時に、周辺の部族が

カルタゴに攻めてきます。防衛に成功したカルタゴは

逆襲するためにその部族を攻めています。すると、

カルタゴに戦争放棄させて二度と領土拡大をさせな

いつもりだったローマが、約束違反としてカルタゴを

攻めて完全に滅亡させました。そしてカルタゴはロー

マ帝国の町になります。今の日本もカルタゴのよう

な立場に近いかもですね。感情的になって北朝鮮

攻撃は出来ませんね。アメリカの承認が無いと日本

がアメリカから攻撃されるでしょう。

 

昨日の続きです。

黒金門枡形を出ると

左端の石垣は黒金門枡形の石垣です。下の古地図①からの撮影です。

前方の石段の先が長谷川秀一邸址です。

 

現地の黒金門にあった地図です。現摠見寺所有の

1687年の古地図を拡大すると

 

現摠見寺所有の1687年の主郭部古地図です。

 

長谷川秀一とは

尾張国出身で、織田氏家臣・長谷川与次の子です。

織田信長に小姓として仕え、矢部家定と共に若年よ

り諸事に用いられます。信長の男色相手として深く

寵愛され、織田家臣時代は「長谷川竹」という呼び名

で呼ばれています。
1578年6月の、播磨神吉城攻めの際には検使の

大津長昌と共に派遣されて、菅屋長頼・矢部家定・

万見重元・祝重正と番替で検分を行ないました。同

年12月の有岡城の戦いで万見重元が戦死すると、

1579年1月に安土城の邸宅の入れ替えがあって、

旧万見邸が長谷川秀一の邸宅となりました。

 

長谷川秀一の肖像画です。

 

安土では伴天連屋敷地造営の奉行や安土の馬場建設の奉行などしました。

1580年12月には猪子高就・福富秀勝・西尾吉次と4人で、武田勝頼の高

天神城包囲中の徳川家康の陣に派遣され、3日ほど現場を視察して帰りま

した。

1582年3月には、信長に従って菅屋長頼・堀秀政・矢部家定・福富秀勝と

秀一の五人が馬廻衆を率いて甲州征伐に出陣したが、既に織田信忠によっ

て、武田家の討伐は完了していたために、戦闘はなく、秀一が行った仕事は

甲府で行った勝頼側近の秋山万可斎・昌成(摂津守)親子の処刑でした。

1582年5月19日には、摠見寺で行われた徳川家康歓待の宴に参加します。

同20日には高雲寺で家康の饗応を丹羽長秀・菅屋・堀と共に行っています。

同21日には家康が大坂の堺を見物に行くことになり、秀一はその案内役と

して西尾吉次と共に家康一行に付けられました。同6月1日には、堺の津田

宗及宅の茶会に家康・穴山梅雪と共に参加しています。

1582年6月2日、本能寺の変の一報は当日の深夜に茶屋四郎次郎によ

って届けられます。秀一は土地勘に乏しい一行の案内を買って出て、河内

国から山城国、近江国を経て伊賀国へと抜ける道取りを説明しました。また、

急使を飛ばして大和国衆の十市遠光に護衛の兵の派遣を要請し、行く先と

して想定した、山城の宇治田原城主の山口甚介にも書状を送り事を説明す

ると山口は家臣の新末景と市野辺出雲守を派遣して草内の渡しの渡河を

助け、宇治田原城へと一行を導いた。その後、これも秀一旧知の近江信楽

町の代官である多羅尾光俊(山口甚介の父)の所領を通って、伊賀に入り

安全圏の尾張熱田まで家康一行に同行して逃げました。

その後、秀吉の家臣となり、小牧長久手の戦いでは信長の子供織田信雄

とも戦いました。1585年3月に、紀州征伐に参加して千石堀城の戦いと

第二次太田城の戦いで武功を挙げます。領地を加増され越前東郷15万

石の領主となります。1588年に豊臣姓を下賜されます。九州・小田原攻

めにも参加し、朝鮮出兵では兵5千人で参加しました。

秀一死後は、彼には嫡子がなく、長谷川氏は無嗣断絶します。

                                 (ウイッキペディアより引用)

 

さらに天主方向に行きました。

古地図②より撮影しました。

 

古地図③より撮影しました。

 

古地図④より撮影しました。

 

古地図⑤付近より撮影しました。右側の石は

 

石垣用に集められた仏足石です。

 

現摠見寺所有の1687年の主郭部古地図です。

 

⑤の石段です。

ここを上がると

⑥付近です。

この左側は

⑥から撮影の二の丸への石段です。

 

階段をあがった二ノ丸です。

 

⑦より信長廟を撮影しました。

1853年に羽柴秀吉が建てた織田信長廟(供養塔)の門が見えます。

この廟には信長の刀や衣類などを納めたそうです。

この二の丸はまだ発掘調査がなされていません。

 

織田信長の供養塔です。中には入れません。

 

今日はここまでです。続きは明日UPします。

 

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