【清和源氏】編『足利一族』章「吉良氏」節 03.西条吉良氏

 吉良氏は、足利一族の名門でありながら、満義・満貞の父子が、長い間、直義派、及び、南朝に属し、幕府と戦い続けたためか、満義が、観応の擾乱以前に、一時期、信濃国守護に任じられたのを除けば、室町時代を通じて、守護職に任じられることはなかった。
 
 西条吉良氏は、満貞の息子の俊氏が、二代目当主の座に就き、室町幕府の引付所頭人を務めた。

 引付所の廃止後、禁裏警護の役所、武者所の長官である、武者頭に任じられる。

 俊氏の息子、義尚は、父の死後、三代目当主となり、同じく、武者頭に任じられた。
 
 1441年(嘉吉元年)6月24日の嘉吉の乱により、六代将軍の足利義教が、暗殺されると、翌年、義教の嫡男、義勝が、七代将軍に就任するまでの将軍不在の期間、義尚が、将軍の代行を務めていたとの説がある。

 吉良氏は、足利一門の中でありながら、管領及び、守護にはなれなかったが、家格は高く、足利宗家の継承権を有していたのである。
 
 1447年(文安四年)年、三管領の一家、斯波家では、当主の斯波千代徳丸(義健)が、若年のため、重臣の甲斐常治と、一族の斯波持種の間で対立が起こり、一触即発の状態に陥った。

 義尚は、自分の娘を、義健に嫁がせ、婿として後見すると約束して、対立する、常治と持種の両者を、自邸に招くと、和解させている。
 
 1452年(享徳元年)、娘婿である、斯波義健が、急死する。義尚は、男児が無かったため、弟の義真に家督を譲ると、引退して、京に住んだ。

 義尚は、1466年(文正元年)、病となり、翌年の1467年(応仁元年)に死去した。享年、五十四歳。
 
 義真は、足利幕府の八代将軍、足利義政に側近として仕えた。

 この頃、西条吉良氏は、渋川氏、斯波氏の支流の石橋氏と共に、将軍の「御一類」と呼ばれ、毎年正月の将軍対面の式など、様々な面で、別格扱いを受けていたと言われる。
 
 義真の妻は、細川典厩家の祖、細川持賢の娘で、細川京兆家の当主である、細川勝元の従兄妹であった。

 そのため、応仁の乱が勃発すると、義真は、細川勝元を総大将とする、東軍に属し、山名宗全を総大将とする、西軍と戦った。

 東条吉良家の当主である、吉良義藤は、西軍に属し、三河国に下向した。

 義真は、義藤に対抗するため、京を息子の義信に任せ、三河国に下向する。

 西条吉良家の義真と、東条吉良家の義藤は、数回に渡り、合戦を繰り返したが、互いの滅亡を招くような、大規模な合戦には、至らなかったようである。

 1477年(文明九年)に、京において、東軍と西軍が、和睦すると同時に、三河国の両吉良氏も、矛を納めたと思われる。

 足利一門の一色義直の父、一色義貫は、三河国の守護であったが、六代将軍の足利義教に自害に追い込まれ、一色氏は、三河国の守護職を失った。

 一色義直は、西軍に属して、父の守護国の三河国を奪回しようとする。

 義真は、義直を牽制するために、三河国に留まり続ける。

 翌年、義直は、三河国を放棄する旨を文書で表明した。

 一色義直が、三河国を放棄すると、義真は、1479年(文明十一年)、再度、上洛するが、二年後の1481年(文明十三年)に死去した。

 西条吉良氏の家督は、息子の義信が継承する。

 義信は、父の義真が、三河国に下向した後も、京に残り、足利義政に近侍していた。


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