『連俳睦百韻』 これが正しい素堂の系譜 全文掲載

甲斐国志以前に書かれた『連俳睦百韻』全文掲載

 和歌に再貫之なし、連歌に宗祇なし、然るに近来たはれうたに古人の芳名を着ることあり。徳を慕ひ侍る故へ願ふ。其の始めは無関門と云ふ。
芭蕉柱杖 
芭蕉和尚示ク 汝有ラハ柱杖子一  我与柱杖子ヲ クバ柱杖子 
我汝ハン柱杖子  
読み下し〕
芭蕉柱杖
芭蕉和尚衆に示して云く、汝に柱杖子有らば、我汝に柱杖子を与えん。汝に柱杖子無くんば、我汝が柱杖子を奪はん。
〔説明〕ここで云う、芭蕉和尚は芭蕉慧清で新羅の人。
百庵謂らく、無関門芭蕉和尚あり。俳諧子に芭蕉庵桃青あり。俳諧を以て世に鳴る。深川の片邊に形ばかりの庵を結びて生涯楽隠。
其の頃和漢の才子、かつしかの隠士山口素堂翁を友とし睦みあへり。桃青庵中庭の邊に芭蕉一株を栽ゆ。繁茂して人称す芭蕉庵、人の呼に従ひて翁自称す。桃青没後に記念として素翁の庭に移さる。贈者も蕉翁、貰人も素翁、殊によき遣物なりけらし。されどほどなくして枯れにき。
往昔、水無瀬御流に有らん。其の心の坐を隔て松あり。御目とヾめさせ給ふなり。
後鳥羽上皇遙の御流の後
いにしへは萩もあるじを志たいにき 松ぞ人をもおもはざりけり
といふ御歌をその松にかけさせ給ふ間、枯るとや。
(出頓阿井蛙抄雑談
百庵庵云ふ、松は年寄堅正之木 不霜雪不凋四時 かくの如きものする□る事あり。
芭蕉は秋風に不甚殊に草なり。然といへども陸佃日嶺南ノ芭蕉尤高大、冬不壊儀多生子。百庵熟謂ラク、暖頃風出るに従て異ナル乎。草木心なしと雖も主人を慕ふ事貴賎相ヒ同じ。雪裏ノ芭蕉ハ摩詰ガ画と、天ノ梅蘂(まいずい)ハ簡斎ガ詩(摩詰吾詩自負トリ簡斎集山谷同人)雪中王維画多不門四時桃李芙蓉蓮衰安 雪図ニ有リ雪中芭蕉象安得心年意到レバ便(スナワ)也。原安適ノ芭蕉追悼に「あはれ芭蕉の霜のよの中」と詠れたり。安叟其ノ頃「以和歌鳴于世」芭蕉・素堂・沾徳誰彼門人也。蓋、桃青宗祇法師の遺風名勝地をたづね旅泊を宿とし、生涯旅に終
新古今集に
世にふるはくるしき物をまきのやに やすくもすぐる初しぐれ我
とあるをとりて宗紙法師 
世にふるはさらにしぐれのやどりかな 
是をとりて芭蕉庵桃青 
 よの中はさらに宗紙のやどり哉
と無季の発歌をなす。(有僻説)此の短冊を深川長慶寺に門人古杉風おさめ墳碑を建つ。其の後柳居再興して新たになす。芭蕉俳諧中興の祖、其の門流今に昌(さかん)なり。是陸佃が嶺南の芭蕉尤も高大、多く生子といへるに叶ふ。
 世にふるは朽ぬ芭蕉のしぐれ哉   百庵
蕉翁没後、素翁上京の砌、吾友芭蕉の墳葉に手向て
志賀の花水うみの水それながら   素堂
是は一休禅師
山城の瓜や茄をそのままに 手向になすぞかも川の水
此の歌の面影也。
素堂翁退隠の後、しのはすの蓮他に十蓮の佳句あり。其ノ後深川阿武に移る。
享保元八月十五日に終る。谷中感応寺中瑞音院に葬る。
 志のはずの水手向ばや秋の月    百庵
是前に蕉翁を素翁追悼の句による者也。元しのはずに住み、今谷中に葬るによりて也。
抑々素堂の鼻祖を尋るに、其ノ始メ河毛(蒲生)氏郷の家臣山口勘助良佞〔後呼佞翁)、町屋に下る。山口素仙堂太良兵衛信章俳名来雪、其の後素仙堂の仙の字を省き素堂と呼ぶ。
其の弟に世をゆずり、後の太良兵衛後ち法體して友哲と云ふ。後ち桑村三右衛門に売り渡し婚家に及ぶ。其ノ弟三男山口才助言は林家の門人、尾州摂津侯の儒臣。其ノ子清助素安兄弟数多クあり皆な死す。其ノ末子幸之助佗名片岡氏を続ぐ。雁山ノ親は友哲家僕を取立て、山口氏を遣し山口太良右衛門、其ノ子雁山也。後チ浅草蔵前米屋笠倉半平子分にして、亀井町小家のある方へ智に遺し、其の後ち放蕩不覊て業産を破り江戸を退き、遠国に漂泊し黒露と改め俳諧を業とし、八十にして終る。
蓋、古素堂翁和漢の方士、芭蕉翁に省る叟にあらず。□然此の叟詩歌を弄び茶事を好むらん。其の余多芸、俳諧の妙手なるといへども俳諧のみにあらず。門弟子をとらず、誠に絶者なりけらし。然るに蕉翁俳諧を好み是に妙也。行状侘びに超て閉逸に其の妙今に絶す。国々在々までも崇る事仏神の如し。蕉翁の末弟乙由後ち麦林と呼ぶ。于時佐久間長水、後ち彼が門弟となる。始め沾徳の門人、沾徳六十五にして死す。『白字録』と云ふ追悼集を撰す。其の子勢吉五つの時歳旦を長水催す。
彼が句に
 はま弓や取て五ツの男山    勢吉
勢吉長水の代句をして引附を出す。後ち麦林が門人に入りて麦阿と呼ぶ。それより東武蕉翁の門流多く、猫もしゃくしも、芭蕉と云へば俳諧子のやうになれり。是れ蕉翁の徳の至にやあらん。手鑑佐々木一徳来雪は、黒露が門に入りて俳諧を弄ぶ事ねもころなり。予も往昔知己なれり。是蕉翁の徳の至りにやあらん。
 于茲佐々木来雪は黒露の門に入りて俳諧を弄ぶ事ねもころなり。予も応昔千古なき素堂翁を信仰し、今般素堂の芳名を附て、来雪安素堂と改名したき由予に告ぐ。予も其の名の事は四十余、素堂の孫素安が我に名各乗るべき由を伝え、恐れあれば不名乗。其の趣きは予が撰る『毫の秋』と云ふ編集の中にしるす。乃、之の後ち素堂と関防の印に著はす。其の事『毫の秋』に委しく述ぶ。然るに素仙堂大路と云う者、今亥初度小冊を催し、素仙堂の芳名を付けて侍る事、尤も縁なき者にして紛れ者なりと予に告ぐ。それはともあれ来雪庵素堂、汝ならで有べからざると、佐々木民某に免し与ふるものなり。
しかいふものは、古素堂の外甥黒露、素翁嫡孫素安、親族百庵かく聯綿と伝来正しき三世の素堂云々
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