山口素堂は濁川改浚工事には関与していない

山口素堂は濁川改浚工事には関与していない
 
 この書は山口素堂の全貌を資料をもとに解明し、真の素堂像を人々に伝えることを目的にしている。
 文中に於いて過去の間違いを正す為に、誤記述のある書籍名及び著述者を記す場合もある。真実を追求する段階で必要であり、許されることと信じている。
 これまでも機会があるごとに山梨県内の歴史認識の曖昧さを訴えてきたが、浅学な一般人の歴史研究などと無視されてきた。
 しかしそうしたことが、私の調査研究情熱に拍車をかける大きな要因になった。歴史の誤差を修復するには時間がかかる。
 現在伝わる素堂像は真実のものと大きな開きがあり、人々に正しく伝わっていない。中でも○「素堂と濁川改浚工事」との関連については『甲斐国志』のこの項の編者または筆記者の独壇場で、素堂まったく関与しないは土木の神に祭りあげられてしまった。
 その後の山梨県歴史や文学界では、その著者により個人の偏見と見て来たような語りで、だんだんその内容を膨らませ、文学史より土木史に記載されることが多く、したがって素堂本来の研究や資料集が作成されることもなかった。その中でも故人になられた清水茂夫先生は地味ではあっても山梨県の第一人者として的確に素堂の研究を続け「山梨大学研究紀要」に載せられた。先生は他の歴史学者や文学者と違い、出版することがなかったので、その貴重文献が今でも研究紀要の中に眠っておられる。
 いずれ関係者によって大成刊行されことを期待するところで、もし誰も手をつけないのであれば、いずれ関係者の了解を得て刊行の業に携わりたい。それが先生に対する私のこれまでの指導への恩返しである。
 最初は「素人あつかい」であったが、何度かお会いするうちに、私の研究についても多数のご助言をいただいた。しかし先生の研究は専門的で、他の歴史学者の手前もあり、私も深入りすることはなかった。しかし素堂の勤務していた先については、それが素堂の「長崎旅行」が深い関係があり、「-----君が春」の君は主君の事で、すればそれは唐津城主であったのではないか、と示唆された。
 
さて『甲斐国志』は素堂が没して百余年経てから甲斐で編纂され幕府に提出された一級の地歴書であると云う。編纂時に参考にした中央の資料も多くまた多くの時間を割いて取材し、村々へも資料の提出を要請し地方もこれに応じた。その範囲は山川や神社仏閣などや人物や古蹟に至るまで甲斐の歴史を網羅し、編纂者の労苦が忍ばれる。私は『甲斐国志』を批判したり、全体の信憑性を疑う者ではない。
但し「素道」(そどう)の項などの伝記の部分については、宮本武蔵を甲斐の生まれとするなど、信憑性を疑われる箇所もある。いわゆる資料不足であった。
後にも触れるが、甲斐国志のこの項の記述は、当時の代官桜井孫兵衛の事績を甥の斉藤正辰が記述石刻した「顕彰碑」の文が元になっているが、この碑文には、素堂のことは一言も触れていない。したがって、一年前に妻の実家と亡き母の身延詣での代参に甲斐に来た素堂をなんらかの理由で結びつけ、素堂にかこつけて孫兵衛の事績を掲載したもので、素堂や宮本武蔵の項は、山梨県の著者でなく、江戸関係もしくは桜井・斉藤縁者が記載した可能性も残る。
 
 素堂は甲斐の「濁川改浚工事は関与していない」これは私が長年の調査の結果導き出された結論である。
 本文では『甲斐国志』(以下』国志』)の記述に沿って真偽を確認してみる。素堂は調査した範囲内の資料では決して「素道」とは号していない。また『国志』での素堂の「公商」号は不詳であるが、「小晋」は資料に見える (『含英随記』) 
 素堂の号は信章から来雪そして素堂へと移行している。素堂の本名は『国志』では市右衛門または官兵衛となっていて、市右衛門は 甲府市 中の魚町山口屋市右衛門の代々の家名であり、だからその山口屋の長男であった素堂も市右衛門を名乗ったと推察している。
 後述で詳細に述べるがこの山口屋と素堂の関係は史料には見えない。魚町山口屋は酒造業を営んでいたが、『国志』には山口屋の家業は示されてはいない。
山口屋は人々が「山口殿」と羨む富豪家であったと『国志』以来諸書に記されているが、『国志』以前の書や当時の時代背景からは富豪家山口屋の存在を示す資料は無く、編纂者の記憶違いか創作の疑いもある。
 こうした記述は『国志』一書の記述であり、以後の諸書は『国志』を鵜呑引用し、さらにその事蹟を拡大評価して著す傾向にあり、その結果素堂の多くの事蹟は消失して濁川改浚工事関与が事実の様に人々の記憶に積重なることになった。
 『国志』への歴史関係者の盲信や、自らの歴史観を固守など歴史への特別の思い込みは歪んだ歴史を生み、真実から遠ざかることになる。
 歴史は常に見直しが必要で、歴史家には自説を問い質す謙虚さが求められるもので、確実な資料の少ない場合は、確定せず後世へ託すべきであり、軽はずみな定説創りを急いではならない。また歴史関係者は自説と違ったり、過去の定説が覆る資料が現われた場合には素直に耳を傾ける度量の広さが求められる。
 自己の研究を中心にして著さずに、引用書中心の歴史論の展開は間違いを訂正するどころか、間違った説を史実に近くすることにもなる。引用の繋ぎ会わせや仮定説を真実のように記述するだけでは史実は解明できない。
また歴史書は一度間違いを史実のように書すと、真説が出ても滅多に訂正されることはなく、訂正の機会にも恵まれないものだ。国書や高名な歴史学者の説は、例え間違っていても訂正されることはなく追認され、引用されて定説になり、史実ようになるものである。
 山梨県の歴史の中で素堂と濁川改浚工事はそれの最たるものであると考えられる。
 
今回は優良な資料を各種提出して、素堂の甲斐との関係の浅さや濁川改浚工事との関与がいかに薄いかを多くの人に認識していただきたい。また『国志』の素堂に関する記述で明らかに間違っている箇所も多い。これは項を変えて述べることとする。
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