●素堂の家と家系 素堂は白州町山口の生まれではない

●素堂の家 
 《参考資料》「竹洞日記」幕府儒官人見竹洞著《元禄六年夏》
        癸酉季夏初十日与二三君乗舟泛浅草川入 
        川東之小港訪素堂之隠窟竹径門深荷花池涼
        松風繞圃瓜茄満畦最長広外之趣也
元禄九年九月 江戸町奉行 地子屋敷帳
 
●素堂の抱え屋敷《参考資料》元禄九年本所深川屋敷帳 深川の条
 素堂抱え屋敷
        四百三拾三坪後、元禄十五年 四百二十九坪
 この土地は郡代伊那半十郎屋敷跡地である。元禄十五年には四坪減少しているが、この原因はわからない。素堂の屋敷は享保二十年までその存在が確認できる。広大な住家の他に抱え屋敷を持つ素堂、草庵はほんの一部に過ぎないのである。
 素堂が濁川工事に関与していたかどうかの資料不足は否めないことが理解されたと思う。また直接の関与も疑わしい。素堂は、この年に度重なる家人の不幸や盟友芭蕉の死去により、精神的に相当落ち込んでいて、俳諧活動も少ない。素堂は元禄八年の「身延詣」が終わると江戸に戻っていた。元禄九年の三月~五月にかけて甲府に居たとする資料は見当たらないのである。

甲府市 山口素堂の墓の墓石調査                                   
 
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●『連俳睦百韻』にみる家系
 安永六年(1777)『連俳睦百韻』佐々木来雪、三世素堂号襲名記念              
 寺町百庵序文中
 
 抑々素堂の鼻祖を尋るに、川毛(蒲生)氏郷の家臣、山口勘助良佞後に佞翁と呼ぶ町屋に下る。山口素仙堂太郎兵衛 信章俳名来雪その後素仙堂の仙の字を省き素堂と呼ぶ。其の弟に世をゆづり後の太郎兵衛、後法体して友哲と云ふ。後桑村三右衛門に売り渡し詫屋に及ぶ。其の三男山口才助訥言林家の門人 尾州摂津公の儒臣、其の子清助素安兄弟数多くあり皆死す。其の子幸之助。詫名片岡氏を続ぐ。云々
 素堂の生まれ----寛永十九年一月四日生まれ。
 
●『甲斐国志』
…註…『連俳睦百韻』と『甲斐国志』の記述を比較すればその違いがよく理解できる。
 
 素道
 山口官兵衛と云ふ。姓は源、名ハ信章。字ハ子晋。一に公商とも云ふ。其の先は州の教来石村山口ニ家ス。因氏と為す。後に居を府中魚町に移す。家頗る富ミ、時の人は山口殿と称ス。信章は寛永十九年壬午五月五日生ル、故ニ重五郎を童名トス。長ジテ市右衛門と更ム。蓋シ家名ナリ。遂舎弟某ニ家産ヲ譲り、市右衛門を襲称使め、自らは名を官兵衛と改むる。
               
 
●山口屋市右衛門 『甲州文庫資料第二巻 魚町宿取上帖』 延宝元年(1673)
 
 二月 当月九日に 西郡筋いますわ村 拙者母気色悪敷御座候故いしゃにかかり于今羅有候
 四丁目 市右衛門
 
●『甲斐国志』文化十三年(1816)
 
 少々自り四方ノ志アリ。屡々江戸に往還して章句を林春斎に受く。亦京都を遊歴して書を持明院家に学び、和歌を清水谷家に受け、連歌は再昌院法印 北村 季吟ヲ師トス。松尾  芭蕉ト同門なり。俳諧を好みて宗因梅翁と号す大阪の人信徳伊東氏京都の人等ヲ友トシ、假リニ来説ト号ス。亦今日庵ト号ス。蓋シ宗旦ノ授クル所カ。
 
●『連俳睦百韻』 明和二年(1765)山口黒露編
 
 学ハ林春斎の高弟、和歌は持明院殿の御門人なと、舞曲は室生良監秘蔵せし弟子入木道の趣、茶子の気味は葛天氏の好き者也と拝し給ひし。あるは又算術にあくまでも長じ給  ひけるも、隠者におかし。
 
●『素堂句集』 享保六年(1732)子光編
 
 隠逸山口素堂信章は、江上の北東浅草川領国橋の傍ら、下総の国、葛飾の郡の内に於て廬を結び、歳月を経て久し。稟性の志多く、固より貨財を以て世事を経ず。心偏らず雪  月花の風流を弄ぶ。弱冠より四方に遊び、名山勝水、或いは絶たる神社、或いは古跡の仏閣とあます事無く歴覧す。詩歌を好み猿楽を嗜み、和歌俳句及び茶道に長けたるなり。云々
 
●『奥の細道解』 天明七年(1787) 来雪庵素堂(佐々木来雪)
  葛飾の隠士素堂は我先師なり。芭蕉翁友とし善、俗名山口太郎兵衛、名は信章俳号は素仙堂来雪なり。本系割符の町屋にして、世々倣富の家なり。性、詩歌を好み又琴曲を学び又謡舞に長ず。家産を投ち第は山口胡庵に譲り、云々
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