【清和源氏】編『足利一族』章「吉良氏」節 02.吉良満義

 1333年(元弘三年)、足利尊氏は、幕命を受け、楠木正成等の討伐軍大将として、鎌倉を出立し、三河国八橋で、軍議を開いた。

 尊氏は、既に、幕府離反を決意していたが、上杉憲房を貞義の許へ使いに出し、決意を述べ、貞義の意見を求めた。

 貞義は、「決意は、誠に目出度い、むしろ、決断が遅過ぎると思ったほど」と答えて、尊氏の考えを支持した。

 尊氏は、貞義の回答に自信を得て、倒幕行動を開始したと言われる。

 貞義は、既に隠居の身であったため、息子の満義が、尊氏に従って、京都の六波羅探題攻撃に参加している。

 鎌倉幕府の滅亡後、建武の新政が開始されると、満義は、足利直義に従い、関東に下向し、1334年(建武元年)、関東廂番六番頭人に任命された。

 満義は、1340年(興国元年)から翌年にかけて、信濃国の守護職に就いていたらしいが、確証はない。

 足利尊氏の弟の直義は、満義を厚く、信頼し、1344年(興国五年)、満義は、幕府引付方の一番頭人に就任すると、直義の政務を補助した。

 この頃、満義は、奥州へと赴いた、東条吉良氏の吉良貞家・満家父子の領地である、吉良東条を接収している。

 足利尊氏と直義の対立、観応の擾乱が発生すると、終始、直義に味方して、尊氏からは、「吉良荘の凶徒」と呼ばれた。

 直義が、死去した後も、尊氏には降らずに、数年に渡って、南朝に属し、抵抗を続けた。

 その後、嫡男の満貞と袂を分かち、北朝に帰順する。

 満義は、1355年(正平十年)、南朝軍が、京都を占領した際には、近江国に下向していた、後光厳天皇の警備を、尊氏から任されている。

 翌年、満義は死去したが、嫡男の満貞は、南朝に属したままであった。

 そのため、満義が接収した、吉良荘東条の家臣団は、当時、九歳の満義の次男、尊義を擁立して、尊氏に従い、満貞と合戦に及んでいる。

 1360年(正平十五年)、吉良満貞は、三河国守護の大島義高と合戦に及び、敗北すると、幕府に帰順した。

 その後、満貞は、幕府に従って、南朝に降った、前幕府執事の細川清氏、三河国の南朝勢力である、鵜殿氏と戦っている。

 満貞は、1362年(正平十七年)には観応の擾乱以来、没収されていた、遠江国引馬荘を還付され、その翌年には引付頭人に就任すると、死去するまで、幕政に参与した。

 しかし、弟の尊義の領有する、吉良荘東条を取り戻すことはできなかった。

 吉良満貞と、弟の尊義は、吉良荘東条を巡って、合戦に及ぶが、和睦が成立し、満貞は、尊義が、東条を領有することを認めた。

 この時点で、足利義氏の長男、長氏を祖とする、吉良氏は、満貞流の西条吉良氏と、尊義流の東条吉良氏に分裂する。

 なお、足利義氏の三男、義継の子孫は、吉良貞家・満家の父子が、奥州管領に任じられ、奥州へ下向するまで、吉良荘東条を領有し、東条吉良氏と呼ばれていた。

 奥州への赴任後、貞家の子孫は、奥州吉良氏と呼ばれることになる。

 日本史上、吉良義継の子孫と、吉良尊義の子孫が、東条吉良氏を称したが、満義の東条接収により、同時に存在していたわけではない。

 故に、両者を区別するために、義継流を前期東条吉良氏、尊義流を後期東条吉良氏と呼ぶ場合がある。

 本作では、以降、義継流を奥州吉良氏、尊義流を東条吉良氏と呼ぶことにする。


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