岡崎城の紹介1 歴史・二の丸

今日から徳川家康の生誕地である、岡崎城の紹介です。

岡崎城は徳川家康の生地で、2007年マンション建設に伴う発掘調査

によって石垣が見つかり、日本国内で4番目の規模の城であることが

判明しました。1873年(明治6年)の廃城令によって廃城となり城内の

天守以下の建物及び土地を払い下げ、現在は一切の建物を失いました。

本丸と周辺の持仏堂曲輪、隠居曲輪、風呂谷等の曲輪と石垣、堀など

の遺構を残すのみで、敷地は龍城神社、岡崎公園として整備されて、

城戸久名古屋工業大学名誉教授設計による、鉄筋コンクリート製天守

などが復興され、市民の憩いの場になっています。

 

岡崎城の歴史は

岡崎城の起源は、1450年頃に明大寺の地に、三河守護の仁木氏家臣

の西郷頼嗣(稠頼)によって築城されたのが始まりです。その後1531年

に、松平清康(家康の祖父)が現在の位置に移して以来、ここが岡崎城と

称されるようになりました。岡崎城は当初、「岡竒城」と記されました。また、

『三河国名所図会』には、「岡崎は享禄(1528年(享禄元年) ~1531年

(享禄4年))以来の名號にして、其以前は菅生郷なり」と記されています。
天文11年(1542年12月26日)に、徳川家康はここ岡崎城内で生まれ

ました。

徳川家康産湯の井戸です。

 

松平元康は6歳で織田信秀(信長の父)、8歳で今川義元の人質となります。

少年期を他国で過ごしましたが、永禄3年(1560)の桶狭間の合戦で、今川

義元が戦死したことを契機に、19歳で自立しました。以来、岡崎城を拠点に

天下統一という偉業への基礎を固めました。
元亀元年(1570年)に家康は、本拠地を遠江浜松(静岡県浜松市)に移し、

嫡男信康を岡崎城主としました。しかし、信長からの指摘で、信康が今川に

通じて謀反を企てているとして、天正7年(1579年)に信康を自刃させます。

その後は、重臣の石川数正、ついで本多重次を城代としました。天正18年

(1590年)に家康が、秀吉によって関東に領地替えされると、秀吉家臣の

田中吉政が城主となります。のちに徳川家康が江戸に幕府を開いてからは、

譜代大名に岡崎城を守らせました。

江戸時代
江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏(康重系統)、

水野氏、松平(松井)氏、本多氏(忠勝系統)と、家格の高い譜代大名が城主

となりました。石高こそ5万石前後と少なかったのですが、大名は岡崎城主と

なることを誇りとしたそうです。西郷氏が築いた当初の岡崎城は、砦のような

もので、城域も本丸程度であっただろうと考えられますが、家康の頃までに

は近世の城郭としての原型ができあがりました。田中吉政は、大規模な城郭

の整備拡張を行い、文禄元年(1592年)に、城の東・北・西に総延長4.7km

に及ぶ総堀を造りました。また、元和3年(1617年)本多康紀が城主のときは、

三層三階地下一階で、東に井戸櫓、南に附櫓をもつ複合天守閣が建てられ

ました。城郭の整備にともない東海道が城下に引き入れられて、岡崎は東海

道有数の宿場町として繁栄しました。

 

江戸時代中期から後期の古地図です。(国立国会図書館より引用)


近代から現在へ
明治維新を迎えると、新しい時代には不用とされた城郭の大部分は明治6年

から7年にかけて取り壊されました。 その後は堀と石垣が昔日の面影をわず

かに伝えるばかりでしたが、岡崎の象徴である天守が無いままでは残念とい

う市民の思いは強く、昭和34年(1959年)に、ほぼ昔どおりの外観で、鉄筋

コンクリート製の天守が復元されました。

 

明治5年の左から天守・井戸櫓・月見櫓を南側から見たところです。(天守5階の古写真より)

幕末取り壊し前の岡崎城の古写真です。

現在の様子です。右側に神社が出来て見え難くなっています。

 

                (岡崎城公式Webページ・ウイッキペディアより引用)

 

グーグルより引用の現在の岡崎城地図です。

 

伊賀川改修工事(明治期)
明治までの伊賀川の流れは、現在の国道248号を越えて早川の流れに

沿って南へ菅生川に合流していました。大雨が降ると菅生川から逆流する

水勢に押され、堤防がたびたび押し流される状況でした。1912年(明治

45年)に、浅井浅次郎をはじめその他の有志らにより、伊賀川の改修工事

が実施されました。当初は伊賀川を西に直進させて、矢作川に直結する

計画もありましたが、結局は現在のように広幡あたりから南流させて、

岡崎城西側の外濠を通して菅生川に合流させました。西に直進させて、

矢作川に合流させてほしかったですね。

岡崎城周辺観光地図です。

 

左端に模擬大手門があります。本来の大手門は高層ビルの辺りにありました。

手前は駐車場です。岡崎城公園部分以外は、遺構がすべて破壊されました。

 

模擬大手門で、現在は二の丸の入口門です。

左右の植木の辺りは堀でした。

江戸中期から後期の古地図です。
 

松の向こう側に下図⑯の東隅櫓が見えます。下図①から撮影しました。

拡大すると

松の向こうに東の丸と、再建の東隅櫓があります。正確な図面が無いので、

古絵図と松山城の櫓を参考に建造されました。

 

もらったパンフレットです。

 

 

①の大手門です。

ここをくぐると

内側から撮影しました。

 

②の三河武士のやかた家康館です。この広場には江戸時代に

岡崎藩の二の丸御殿がありました。

 

岡崎城の模型です。二の丸への入口には櫓門がありました。

 

二の丸御殿の図面です。

 

⑰の二の丸御殿の井戸です。平成19年度の発掘調査で発見されました。

江戸時代の石組井戸です。

 

井戸の中をストロボ撮影しました。下の絵図⑰にあります。

 

もらったパンフレットからの引用です。

 

グレート家康公武将隊の方達と右端がガイドさんです。

 

グレート家康公武将隊の方達です。

 

今日はここまでにします。 続きは明日UPです。

 

読者募集中ですので、読者登録お願いします。
希望があれば、相互登録します。相互アメンバーも募集中です。
どちらもチェックを外して「読者とわかるように」に設定して登録してください。
読者のブログ村・ブログランキングを出来るだけ押しに行きます。
Ctrlキーを押したままで、ポチしたら画面が飛ばされません。
 
お手数ですが、よろしく。下矢印ダウンぽちっと下矢印ダウン押すだけ
                                                            

                                                       にほんブログ村 歴史ブログへ

 

                             ブログランキング・にほんブログ村へ                           

                                                  
                                  にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
 
                              にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
 
                                                                                                          お願いします。

 

Top